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資本主義は滅んで遊ぶ人の新コミュニズムになる

森本紀行HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長
すべての画像:123RF

 働き方改革は、その字義通りに、雇う組織ではなく、働く人を主役にした改革でなければなりません。なぜなら、働き方改革は成長戦略であり、成長の源泉である創造は、組織の次元ではなく、働く個人の次元でしか起き得ないからです。では、創造は、いかにして働く人に起きるのか、いかにして組織の革新につながるのか、個人を主役にした新たなる組織統治の原理とは何なのか。

働き方改革の本質

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 企業などの組織は論理的に構成され、組織の業務は論理的に編成されています。その論理性が経営の効率性を支えているのです。しかし、その論理的な効率性のもとでは、創造が起きるとは考えられません。創造は、それが真に新しいものの創出である限り、無より生じるのであって、過去から現在につながる論理的な展開の先に生まれるはずはなく、過去との断絶として、唐突なる変異として生起するのです。

 組織の論理から創造が生まれないとしたら、創造は組織に属さない個人から生まれるほかありません。組織に属さない個人というのは、全く組織に属さない独立した個人とも限らず、部分的に組織に属する個人でもいいでしょう。実際、個人の人格の全体が組織に属するはずもなく、逆に全く組織に関係することなくしては個人の生活がなりたたないことを考えれば、組織と個人との関係は、無現に多様な濃淡のもとにあり得るわけです。

 働き方改革というのは、組織に個人を帰属させる伝統的発想を超えて、組織と個人との間に自由で弾力的な関係を構想するものだといってよいでしょう。人は誰でも、勤務先の組織のほかに、家族、趣味を同じくするものの会、同窓会、地域社会、ボランティア活動の会などの多様な集団に属しているわけですが、そのなかで勤務先の組織だけを特権化し、その他の集団における活動を全て余暇に押し込んできたのに対して、その特権化を排して、勤務先と他の集団、勤務時間と余暇の関係を相対化しようとする試みこそ、働き方改革の本質です。

 では、なぜ働き方改革が必要なのかといえば、創造を誘発するためにほかなりません。もはや、伝統的な組織のなかに個人を押し込めておいては、創造は起き得ないのであり、創造がなければ成長はないのです。あるいは、もっと簡単なことで、人は、創造的に生きなければ、面白く楽しく生きられないのです。故に、働き方改革です。

論理的な組織の欠陥

 産業組織は、他の集団と違って、設立の目的に対して合理的に編成されているところに特色があります。故に効率的ではあっても、目的を超え得ないという自明の限界のもとにあるわけです。そこで、常に問題になり続けてきたことは、目的自体の合理性が失われたとき、組織の弊害が顕在化することであり、組織の目的を社会の変化に即して自律的に変動させることの困難さであったわけです。いうまでもなく、ここに組織の創造的革新の課題があり、その努力の一環として、働き方改革があるということです。

 これに対して、産業組織ではない他の集団は、価値を共有する人の緩やかな集まりにすぎないのであって、目的に対して合理的に編成された閉じた組織構造をもちません。産業組織には指揮命令系統をもつ統治構造がありますが、産業組織ではない集団には明確な統制がなく、全ては価値の共有に基づく自然な自治に任されているのであって、そこでは個人は独立しているのです。

 この価値の共有と個人の独立は、組織との決定的な違いであり、故に、働き方改革において、組織の欠陥に対する対策として重要な機能を演じ得ると考えられるのです。さて、この何らかの価値を共有する集団は、構成する個人が独立しているという意味で自治的な共同組織と呼ばれるのが一番相応しいでしょうが、むしろ片仮名でコミュニティーと呼んでおきましょう。

金融庁の事例

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 例えば、大胆な組織改革を推進している事例に、金融庁があります。

 金融庁の組織改革を動機付けた決定的要因は、金融規制を徹底せしめたとしても金融機能が高度化するとは限らず、金融機能が高度化したとしても国民の経済厚生が増大するとも限らないという深刻な矛盾です。そこで、組織の目的、即ち金融行政の目的を国民の経済厚生の増大においたわけですが、そうなると、目的が一般化し抽象化してしまうので、組織としての根幹が揺らぐ事態に陥ります。実際、金融庁の所管にとらわれないということを金融庁自身がいわざるを得ない事態になっているわけです。

 そこで、金融庁では、職員に対して国益への貢献を直接に求め、施策立案の起点を若手の個人に移そうという大胆な改革が実行されつつあるところです。まさに、国益という価値の共有と職員個人の独立性というコミュニティーの原理を導入した働き方改革の好事例だといえるでしょう。

 例えば、金融庁の当年度の行政方針には、組織改革の一環として、「外部有識者等を交えた職員による自主的な政策提案の枠組み(政策オープンラボ)を設ける等、職員一人ひとりが政策形成に参加する機会を拡充する」とありますが、この政策オープンラボこそ、コミュニティーにほかなりません。

コミュニティーの原理

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 コミュニティーは、独立した個人の集合です。そして、独立した個人こそ創造の現場ですから、その限りにおいて、コミュニティーは創造的なのです。問題は、創造の可能性は、個人がコミュニティーに属することによって、高められるという点に帰着します。実際、創造は、社会に向かってなされものである以上、孤立した個人の地平では起き得ないでしょうし、創造を組織の革新につなげるためには、コミュニティーのような何らかの媒介を必要とするはずなのです。

 さて、価値が共有され、その価値の力だけで自治が成立するためには、コミュニティーには規模の上限があるでしょう。おそらくは、社会が均質的であればあるほど、コミュニティーの規模は大きくなり得て、また、社会環境の変化が緩やかであればあるほど、コミュニティーの規模は大きくなり得るのだと思われます。逆に、社会が多様であれば価値も多様となり、変化が速ければ価値を共有できる時間が限られるために、コミュニティーは小さくならざるを得ないでしょう。

 企業に代表される組織も、創業の原点においては、創造的コミュニティーだったに違いありません。そして、おそらくは、社会構造が均質で、構造の変化が緩やかだった時期には、いわば時間がゆっくりと均質に流れていた時期には、創造的に機能していたのではないでしょうか。実際、多くの企業は目的合理的な組織というよりも、価値を共有するコミュニティーに近かったのではないでしょうか。

 しかし、各自が経験に付与する価値観が多様化し、支配的価値の交代が激しい現代社会では、企業のような組織はコミュニティーとして大きすぎるのです。しかも、大きすぎる組織を維持するための支配原理は、命令の体系として、仕事の楽しみを完全に奪ってしまっています。だからこそ、改革が必要なのです。

遊ぶコミュニティー

 組織に属する限りにおいて、人は仕事をするのです。組織を離れているときは仕事をしていないのですが、何をしているのかは多様の極みですから、わかりやすく遊んでいるといっておきましょう。例えば、金融庁の例でいえば、政策オープンラボの活動は自主的な政策提言の試みとされていて、自主的である限り、それは命令された職務ではないのですから、要は遊んでいるのと変わらないわけです。

 ここで重要なことは、個人が自主的に取り組むのは、そのことを個人が好きで楽しんでいるからだという自明極まりない点です。実際、命令の体系は、遊びの楽しみと両立しません。仕事が楽しくないから生産性があがらないし創造も起きない、だからといって、楽しく遊んでいるから生産性があがり創造が起きるとも限らないでしょうが、少なくとも、遊びに組織改革の可能性を求めることは自然なことです。

余裕と無駄

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 仕事の余暇に遊ぶというのは、極めて常識的な考え方です。実際、金融庁の例でも、政策オープンラボの活動は、仕事の余暇に行う前提なのでしょう。逆に、好きで楽しい政策オープンラボの活動にいそしむためには、能率よく仕事を片付けて余裕を作れということなのかもしれません。遊ぶ人は余っている人なのであり、余っている人には遊ぶ時間があるということです。

 さて、当然のことですが、遊びは仕事ではありませんから、無駄です。問題は、この無駄が仕事に転化するかどうか、即ち創造が起きるかどうかということです。金融庁の例でも、政策オープンラボの活動は政策提案に結びつくことが期待されているわけですが、期待にすぎないからこそ遊びであるわけで、普通の仕事のように成果につながる論理的展開が事前に巧まれているわけではないのです。要は、遊びが成果につながるのは偶然だということ、創造は偶然だということです。

偶然を必然に転換

 偶然が成果につながれば、成果につながったことが巧まれた必然であったかのように、成功の物語が創作されます。しかし、それは歴史を都合よく改竄することです。偶然は偶然なのです。実際、合理的な目的性をもたないコミュニティー内の遊びが社会的一般性を獲得できるかどうかは予見できないし、また、予見できるようなものは既にどこかに存在していて、創造という言葉には値しないのです。

 コミュニティー内の活動は、自己目的化した純粋行為なのであって、成果を志向していないし、すべきでもありません。それが成果として認知されるのは、気まぐれな社会的評価に基づく偶然です。しかし、評価を得れば、それは必然として説明されます。

 故に、組織経営の課題は、第一に、偶然たらざるを得ない社会的評価の成功確率を引上げることであり、第二に、偶然の結果を必然の成果であるかのように説明するために、成功神話を創作することです。

文化の厚み

 では、どうすれば確率が高くなるか。これは、文化的多様性、片仮名でいうダイバーシティー(diversity)の問題であり、文化的教養、これも片仮名でいえば、ヒューマニティー(humanity)の問題であり、総合して文化、片仮名のカルチャー(culture)の問題です。ダイバーシティー度が大きいほど、ヒューマニティーに深みと厚みがあるほど、成功確率が高くなるのです。要は、文化を醸成することに帰着します。

 もうひとつ重要なことは、真剣に純粋に遊ばせることです。仕事の雑味は遊びの質を低下させ、成功確率を著しく引き下げるに違いありません。

 また、成功神話の共有は、価値の共有に通じるものがあって、組織にコミュニティーの生命力を吹き込むものです。これからの経営者に求められる資質は神話を創作する能力ですが、その資質は文化の醸成によって形成されてくるものでしょう。

新コミュニズム宣言

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 企業における資本の論理こそ、組織の論理の代表です。資本は創造せず、人の創造を略奪するものです。これが初期マルクスの問題領域です。

 もはや、仕事の名のもとで人間が資本に使役される資本主義、片仮名のキャピタリズム(capitalism)は死んで、人間が復活し、人間が解放されて遊ぶ価値のコミュニティー、即ちコミュニティー主義、あるいは新コミュニズム(neo-communism)へ移行しなければなりません。マルクスの誤りは、共産主義、即ちコミュニズム(communism)を構想することで、人間の解放に失敗したことです。

 ESGやSDGsなどの問題領域も、修正キャピタリズムを超えて、新コミュニズムのもとで、本質的な解を得ることでしょう。

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長。三井生命(現大樹生命)のファンドマネジャーを経て、1990 年1 月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。 2002 年11 月、HC アセットマネジメントを設立、全世界の投資機会を発掘し、専門家に運用委託するという、新しいタイプの資産運用事業を始める。東京大学文学部哲学科卒。

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