「逃げ上手の若君」の主人公・北条時行とは、いかなる人物なのか
週刊少年ジャンプに連載中の松井優征さんの「逃げ上手の若君」がアニメ化されるという。近年、大人向けのテレビ時代劇は、大河ドラマを除くと消滅してしまった。子供だけではなく、大人も期待しているだろう。
「逃げ上手の若君」において、時行は少年の姿で描かれていた。時行は14代執権・北条高時の次男(母は二位局)として誕生したが、生年は不詳である。生年が不明なことは、別に珍しいことでない。
兄の邦時が正中2年(1325)11月の誕生なので、時行はそれ以降に生まれたことになろう。鎌倉幕府滅亡時、時行は9歳(数え年)にも満たない子供だった。なので、年齢の設定は妥当といえよう。
時行の幼名は勝長寿丸、勝寿丸、亀寿、全嘉丸、亀寿丸などが伝わっている。通称は、相模次郎だった。残念ながら、幼い頃の時行については、知るところが少ない。
時行の父・高時は田楽や闘犬に熱中しており、「愚かで執権など務まらない」(『保暦間記』)と手厳しく評価されるような人物だった。『太平記』などでも、高時は悪しざまに描かれている。
しかし、それは編纂物に書かれた人物評であり、現在ではそのまま信じてよいのか疑問視されている。父の貞時が酒浸りだったことが災いしたともいわれている。ただ、高時が病弱だったのは事実のようだ。
高時の時代は御家人の窮乏化(この点については異説もある)、悪党が跳梁するなど、世情の不安が高まっていた。人々の幕府に対する不満がピークに達していたといわれている。
おまけに当時、後醍醐天皇は天皇親政を目指し、正中の変(正中元年・1324)、元弘の変(元弘元年・1331)の2度にわたり、倒幕を画策していた。これに与同する勢力もいたのだ。
その都度、幕府は反乱の鎮圧に成功し、後醍醐は元弘2年(1332)に隠岐島(島根県)に流された。幕府としては、「もう倒幕運動は起こらないはず」と安心していたかもしれない。
しかし、幕府の淡い期待にかかわらず、各地で倒幕の動きが顕著になり、後醍醐天皇を支える勢力が各地で挙兵した。こうして元弘3年(1333)5月、ついに鎌倉幕府は滅亡したのである。