ノーベル賞受賞!カズオ・イシグロ「書くことは生きること、読むことは生きるために必要なこと」
日系英国人の作家カズオ・イシグロさんがノーベル文学賞を受賞!ということで今回は、以前、著作『わたしを離さないで』が映画化された時のインタビューをお届けします。この時の来日は同作の映画化作品の公開のタイミングだったのですが、私がインタビューしたテーマはイシグロさんにとって「文学」とはどんなものか、どんな本を読んで作家になり、今は読書をどんなふうに楽しんでいるのか。このタイミングで読んでいただくのにふさわしいのではないかなーと思います。
もちろん『わたしを離さないで』のお話も聞いていますが、ちょっとネタバレ的なところがあるので、これに関してはラストにまとめてあります。本も映画もすばらしい作品。ネタバレスポイラー代わりに予告編を入れてありますので、それ以降は本を読んだ後、映画を見た後に!ということでどうぞ!
イシグロ作品は広く読まれていながら「文学」の香りがあるように感じます。ご自身が考える「文学」のあるべき要素とはどんなものですか?
それほど堅苦しく考えなくてもいいと思いますよ。つまり「文学」と、「娯楽作」「大衆作」を分け隔てることもないのかなと、私は思っているんです。大学の勉強などでは人工的に線引きをすることもありますが、現代のそういう場所で「文学」と呼ばれているものは、過去においては「ポップ」だったんですから。
ただ私が大事にしていることは、読者の心に触れること――感動や感情をどれだけ呼び起こすことができるかです。どんなに学術的で知的であっても、心を動かすものがなければそれは芸術とはいえません。だからこうして映画化される場合においても、人間の感情が描けているか、感動できるかどうかが大事ですし、さらにそれが単なる観客をセンチメンタルな感傷へ誘導するようなものではなく、真実のエモーションであることが大事なんです。それはハリウッドのブロックバスター映画でも、小説でも可能だと考えています。
ご自身はお若い頃はどんな小説を読んでらしたんですか?
若い頃は、実はあんまり読んでいなかったんです。典型的な男の子で(笑)、むしろ音楽を聴いていました。ボブ・ディランやレナード・コーエン、トム・ウェイツなんかを――特に歌詞を聞いていましたね。書くことも最初は歌詞、それから短編小説、小説というふうに移行してゆきました。余談ですが、実は今も歌詞は書いています。フランスで成功しているステイシー・ケントさんというジャズシンガーの歌詞を書き、プラチナディスクにもなりました。僕にとって趣味的な部分ですが、重要な部分でもあるんです。
読書を真剣に始めたのは20歳くらいでしょうか。当時はドストエフスキーやトルストイ、それからシャーロット・ブロンテなんかを。最近自覚したんですが、ブロンテの作品をものすごいパクっていますね(笑)。小説を書き始める数年前に読んでいた『ジェーン・エア』なんかのスタイルには、かなり影響を受けています。
小説に移行したのはどうしてでしょう?
それは僕自身のバックグラウンドである日本と関係しています。20歳くらいの頃、日本に興味を持ったんです。僕が渡英したのは5歳の頃で、日本についての記憶はいろいろあるんですが、それがだんだん消えていっていることを感じたんです。ですからそれを永久保存するために、何かを書く必要があったんですね。最初の長編『遠い山並みの光』は、僕の頭の中にある長崎――実際の長崎ではなく、思い出の中に作り上げた長崎を描いたものなんです。今思えば、そのイマジネーションを歌詞にすることもできたかもしれませんが、世界観をすべて描くためには、やっぱり長編になってしまいましたね。
著作には「主人公が記憶を振り返る」という形の作品も多いですが、それはご自身のそうした体験と何か関係がありますか?
年齢を重ねるにつれ、自分の記憶だけなく、ほかの人々の「メモリー」に興味を持つようになりました。ですから記憶というのは常に僕の中のテーマであります。過去において自分がどうだったのか、それは思い出すたびに歪められたり変わったりするものですよね。『日の名残り』などはまさにそれを描いています。ある人物が「自分は人生を無駄に生きてきたのではないか」いう思いにとらわれ過去を振り返るという話です。
一方、『わたしを離さないで』での「メモリー」は、ちょっと違う使われ方――「死に対抗する武器」のようなものとして使われています。主人公のキャシーは狂言回し的な存在ですが、彼女はすべてを失ってしまいます。友情も、愛する人も。残っているのは、彼らの記憶――思い出だけなんですが、これだけは誰も奪うことが出来ません。だから彼女がストーリーを語ることは、死に立ち向かい、勝利するための方法なんです。映画でも、キャシーがすべてを失った後に振り返るボイスオーバーが使われていますよね。失われていくもの、失われていく人々が、思い出として残り、様々な記憶で語られることが重要だったんです。
イシグロさんが記憶を残すために小説を書き始めたのならば、それによって死に対抗しているのかもしれませんね。
「死」について常に考えながら書いているわけではありませんが、確かに「生きている証」にはなりますよね。『わたしを離さないで』のトミーが絵をしょっちゅう描いているように、僕にとっては物語を書くことがまさに生きていることだし、何かを残せること。自分が生きていることを思い出すための行為でもあるし、手遅れにならないうちに残すためのチャンスでもあるんですね。
読む行為はどうでしょうか?他の作家の作品を読むことは、作家にとってどういうものなのでしょうか?
先ほど、若い頃は本を読んでいなかったと言いましたが、いまはもっともっと本を読んでいます。それもかなり幅広く、何世紀も前のものも読んでいますよ。自分がこうして作家として経験を積んでいくにつれ、たとえば2世紀前の作品を読んでいても、彼らの気持ちがすごくよくわかったり、同志のような仲間意識のようなものを感じたり、たまには先輩だなって思えたり(笑)――とにかく親しみを感じるんですね。遠い昔の作品ではなくて、彼らが実際に書いているときの悩みや問題までを感じることが出来るんです。
最近の作品で、イシグロさんが共感した作品はなんでしょうか?
やっぱりシャーロット・ブロンテですね。彼女は若くして死んでいるのであんまり作品がないんですね。『ジェーン・エア』と『ヴィレット』の2作品が一番好きです。
ちなみにドストエフスキーとトルストイでは何がオススメですか?
ドストエフスキーは『悪霊』です。でも最初に読むなら『罪と罰』がいいでしょうね。あれは本当に素晴らしい作品だし、入り口としてはいいと思います。トルストイは『戦争と平和』ですね。
ご自身の作品では?
選べません。子供みたいなものですから。
イシグロさんが考える「本を読むこと」の魅力とはどんなものですか?
強制はできませんから、自然と読みたいと思ってもらうことが必要なんです。『ハリー・ポッター』はいろいろ言われてはいますが、本を読む人間を増やしましたよね。子供だけでなく大人にとっても、読むという体験の入り口として、とてもいい本だったと思います。やはり体験してもらわないとその楽しさはわかりませんから。
「ダイエットのためのジム通い」のように健康にいい!というわけにはいきませんが、読書は人間にとって大切なことだと思いますよ。芸術によって感情や感動を互いに共有しあうことがなくなれば、人間の関係は単なるビジネスのみになり、非常に大切な何かを失ってしまうと思います。物語というものは、原始人が火の周りで語り合うことに始まって以来ずっと続いていますし、人間には不可欠なんですよ。
読みたいと思わせる工夫は、何かあるのでしょうか?
始めから「売れる本、商業ベースに乗る本を書こう」という意識では、決していい結果にはならないと思います。やはり一番大事なのは独創性。人とは違うユニークなものを書くことです。でなかったら、面白い番組がやっているテレビがあるのに、15時間もかけて本を読んでもらえませんから。ただ本にしかない楽しさがあるとすれば、それは自分とは別の人物の頭の中に入れることかもしれません。テレビドラマや映画は、俳優の顔をアップにすることはできても、頭の中で起きていることは描けませんよね。本当に詳細にわたる頭の中、心の中の動きを描けるのは小説だけだと思います。
『わたしを離さないで』を読んだときに、イシグロさんの年齢の男性が、どうして少女のやりとりや友情を上手に描けるのか不思議に思いましたが、なにか秘訣があるんですか?
私の最初の小説は、年配の日本人女性の視点から書きました。自分とは全く別のキャラクターのほうが書きやすいと、その時点で気づきましたね。不思議なもので、自分に近いキャラクターだとなぜか書きづらいんですよ。自分自身の考えが邪魔して、キャラクターが生きてこないんです。逆に自分と全く違う人間だと、想像力がたくましく働くんです。たぶんいろいろと考えさせられるからだと思います。物語に重要なことや、キャラクターにとって一番大事なことなどをね。『わたしを離さないで』の場合は、僕の娘が18歳ですから、彼女を通してその世界や考え方を知りました。
これは単に読者としてお聞きしたいのですが、主人公たちには「逃げる」という選択肢はなかったのかなあと。
逃げたとしても、その先に何があるか、未来が見えなかったからだったんでしょう。そもそも彼らにはそういう概念がないし、どこに逃げればいいのかも分からなかったんだと思います。でも映画を作るにあたり、「逃げるべきか?」というディスカッションはしました。こういうジャンルの映画において、特にアメリカ映画であれば、95%はそうした展開になります。囚われた場所などから逃げるとか、自信のない人が自信を獲得するとか、主人公が状況に何かしら勝利するというような。映画に親しんだ多くの方は、どうしてもそういう展開を期待してしまうんですね。でも現実の人間は、与えられた状況を受け入れ、その中でベストを尽くして生きていく。そういうものです。だって、誰もが楽しくもない結婚にガマンしてるでしょ。何で逃げないの?って話で(笑)。
実際のところ、逃げる場所なんてないんです。ヨーロッパの前世紀には独裁者がいて、階級制度がありましたよね。共産主義国家からだって逃げられたかもしれない。でも誰もが「受け入れるしかない」と思っていたでしょう。戦争が起きて兵士になれば、ほとんどの人が逃げずに戦いますし、奴隷制度の中でさえ、奴隷が反乱を起こした例はほとんどありません。彼らが解放されたのは、雇い主のほうが「コレは悪いことだ」って気づいたからで。誰もが与えられた状況の中で一生懸命に生きる、囚われの身であってもそういうメンタリティを持つものだと思います。
それが映画と小説の違いかもしれませんね。
映画と小説の違いというより、日本やヨーロッパと、アメリカとの違いかもしれません。日本やヨーロッパでは、映画でも「逃げる」ことにこだわらないと思うんです。体験がアメリカと違うんですね。溝口の映画なんて、登場人物はぜんぜん逃げないでしょ?小津の映画なんかも同じですよね。アメリカ映画では『ゴッドファーザー』が例外的、あれは状況から逃げない人の話ですが、そういう部分はやっぱりアメリカ映画の強さなのでしょうね。