【九州三国志】幼き頃より輝きを放つ、立花宗茂の非凡なる人柄!勇将たる矜持と武士の美徳
立花宗茂は幼い頃から並外れた胆力を示していました。
8歳の頃、見物中に騒動が起こり、殺人が発生したものの、人々が逃げ惑う中、宗茂は動じることなく「見世物は終わったのか」と尋ねたという逸話が残ります。
また13歳の時、養父・立花道雪のもとで厳しい教育を受けた宗茂は、栗の棘を足に刺して困ったところ、家臣がそれを逆に押し付ける仕打ちに耐えた経験を「恥ずかしいが貴重な教え」と後年振り返っています。
立花家に婿入りする際、実父の高橋紹運から「いざという時は立花の人間として、わしを討ち取れ」と一剣を渡された宗茂は、その剣を終生手放さず、義理と覚悟を胸に刻みました。
また、豊臣秀吉から加増を勧められた際も「領地は十分、先鋒として戦場で働かせてほしい」と断りを入れる謙虚さを見せたのです。
その誇り高き姿勢は、朝鮮出兵での碧蹄館の戦いにおいて日本無双の武勇を示す結果となり、秀吉からも高い評価を受けることとなりました。
関ヶ原の戦い後の改易と浪人生活においても、宗茂の信念は揺るぎませんでした。
柳川城を開城する際には領民が涙ながらに引き止めるほどの信頼を集め、「領民を戦乱に巻き込みたくない」という言葉に民は涙したとのこと。
浪人時代には困窮する生活を送ったとされるものの、家臣たちの支援や旧家臣団の援助もあり、実際のところ誇張された部分もあるようです。
晩年の宗茂は武だけでなく文の才も発揮。
連歌や茶道、能楽、蹴鞠など多彩な趣味に精通し、剣術では独自の流派を興すほどの達人でした。
また、養子や大名たちに兵の運用を問われた際には「人を子のように慈しむことこそ統率の要」と語り、その采配術に現代でも学ぶべき教訓を残しています。
徳川家康や細川忠興など多くの武将から賞賛され、晩年は江戸幕府で特別扱いを受ける存在でした。
1642年、76歳で亡くなり、その名は戒名にも刻まれます。
常に義理堅く、武士の美徳を体現した彼の姿は「武士の中の武士」として語り継がれているのです。
温厚で誠実な人柄と比類なき武勇で、彼の名は今なお福岡の地に息づいています。