【九州三国志】改易の身から再び立つ、立花宗茂の浪人時代!忠義と誇りを胸に、大名への復帰を果たす
関ヶ原の戦い後、立花宗茂は改易され浪人の身となりました。
その器量を惜しんだ加藤清正や前田利長が家臣に招こうとするが、宗茂はこれを辞退します。
清正は諦めて食客として迎え、宗茂は清正を離れると家臣を率いて京都へ向かいました。
一方、正室・誾千代は熊本の地で暮らしていたものの、慶長7年(1602年)に病に倒れ、道雪の血筋は絶えることとなったのです。
慶長8年(1603年)、宗茂は江戸へ下り、本多忠勝の世話で蟄居生活を送ります。
その後、忠勝の推挙で徳川家康に召し出され、御書院番頭として5,000石を給されたのです。
慶長11年には陸奥棚倉で1万石を与えられ、大名に復帰しました。
さらに加増を受け、宗茂は再び名を「宗茂」と改めて徳川幕府のもとで重きをなしていくのです。
元和6年(1620年)、宗茂は旧領・筑後柳川10万石への復帰を命じられ、関ヶ原の戦いで改易された大名としては唯一の旧領回復を果たしました。
これは彼の武名がいかに高かったかを物語っています。
その後も幕府中枢で将軍に近侍し、相伴衆として伊達政宗や加藤嘉明らとともに家光に戦国の物語を語る役目を担いました。
晩年は島原の乱にも参陣し、松平信綱を助けて軍事進言や指揮を執り、昔日の勇姿を見せました。
乱後、養子の忠茂に家督を譲り、寛永19年(1642年)江戸で死去します。
享年76。
その戒名には「宗茂」の名がそのまま使われました。彼の名は忠義の象徴として今も語り継がれています。