【九州三国志】一瞬の輝き、散りゆく志!周防の地に再び鳴り響いた、大内の名
大内氏がその繁栄に幕を閉じたのは、弘治元年(1555年)の毛利元就による防長経略からでした。
名門の滅亡後、周防・長門は毛利氏の支配下に置かれたものの、それに従えない旧大内家臣の残党たちが不満を燻らせていたのです。
弘治3年(1557年)には、大内義隆の遺児とされる問田亀鶴丸を旗頭に、旧臣たちが挙兵して毛利支配に反旗を翻しました。
だが毛利氏はこれを容赦なく鎮圧。
以降も散発的な反乱は続いたものの、山口を守る市川経好らの活躍によって毛利氏の統治は徐々に安定していったのです。
そんな中、大内家の再興を夢見る人物が豊後国にいました。
大内義興の弟の子、大内輝弘です。
父・高弘が大内氏に謀反を起こして失敗し、豊後に亡命した経緯を背負いながら、輝弘は一族の名を取り戻すべく戦の機会を窺っていました。
そして永禄12年(1569年)、毛利氏が九州に進出し大友氏との戦火が広がる中、大友家臣の吉岡長増の後方撹乱策に応じて輝弘の夢が動き出します。
永禄12年10月、大内輝弘はわずか2,000の兵を率いて周防国に上陸するや、旧大内家臣の支持を受けてその勢力は6,000に膨れ上がりました。
山口に侵入した輝弘は高嶺城に攻撃を仕掛けたものの、城を守る市川経好の妻らわずかな守兵による必死の防戦により攻略に手間取ります。
一方、九州から撤退を決意した毛利元就は山口奪還のため、次々と援軍を送り込みました。
吉川元春ら率いる1万の兵が到着すると、輝弘の軍勢は次第に包囲され、その勢いを失っていったのです。
10月25日、追い詰められた輝弘は僅か800の兵を引き連れ上陸地点の秋穂浦へ撤退するも船はなく、やむなく東へ向かう途中で毛利軍に追撃されます。
ついに富海の茶臼山で最後の抵抗を試みるが、圧倒的な兵力差の前に壊滅したのです。
輝弘は自刃し、乱は終結しました。この戦いで大内氏の血脈は断たれ、名実共にその歴史の幕を閉じたのです。
この戦いは三者に異なる結末をもたらしました。
毛利氏は反乱を鎮圧し、周防・長門の支配を確固たるものとしたものの、九州からの撤退を余儀なくされ、以降大友氏との争いから手を引いたのです。
一方、大友氏は輝弘の奮戦による毛利軍の撤退を成功とし、失地回復という形で利益を得ました。
だがその背後には龍造寺氏や島津氏との新たな対立が待ち受けていたのです。
そして大内氏。最後の当主となった輝弘の死によって、その再興の夢は断たれました。
しかしその血筋は遠く尾張の山口氏に受け継がれ、江戸時代には常陸牛久藩を治める譜代大名としてその名を残したのです。
消えゆく名門の断末魔は、戦国時代の非情さと儚さを浮き彫りにしながらも、新たな時代への礎として歴史に刻まれたのです。