【九州三国志】釜山から固城、立花宗茂の守備と進撃!その武勇は海を越えて伝説となる
慶長2年(1597年)より始まる慶長の役において、立花宗茂は釜山や固城倭城など重要拠点の守備を任されました。
第一次蔚山城の戦いの際には固城で守備に就いていたため参戦が遅れたが、その後の防衛戦においても的確な指揮を見せたのです。
慶長3年(1598年)の三方面同時攻勢では固城に布陣し、島津忠恒の通報に応じつつも積極的な攻撃には参加しませんでした。
しかし、秀吉の死去後、日本軍の撤退命令が下ると、宗茂はその退却作戦でその武勇を大いに発揮します。
明・朝鮮軍の海上封鎖に苦しむ小西行長らの順天倭城救援に際し、宗茂は弟の高橋直次らと共に水軍を編成。
まず泗川倭城で敵船を突破し、島津義弘軍と合流。
その後、順天倭城へ向かう途中で陳璘や李舜臣率いる明・朝鮮水軍と交戦(露梁海戦)し、数百の敵船を撃破。
封鎖を破り小西らの撤退を成功させました。
この戦いについては島津家臣の日記にも「立花軍の奮戦は目覚ましい」と記され、敵味方問わずその勇猛さが称えられたのです。
また、第一次蔚山城の戦いでは、宗茂は釜山の守備から蔚山へと駆けつけ、わずか1,000の兵で敵軍を撃退したという逸話も残っています。
夜襲や火計、偽の陣営を用いて敵軍を撹乱し、数倍の敵を追い払ったとされるのです。
その後も蔚山城内の加藤清正を救援し、清正から「日本軍第一の勇将」と讃えられたという話が伝わるものの、これらの詳細については史料の信憑性に議論があります。
それでも、宗茂が撤退戦において重要な役割を果たしたことは疑いようがありません。
慶長の役を通じて、宗茂は戦術家としての才と忠勇を示し、戦場での果敢な働きが味方の信頼を集めました。
たとえ伝説めいた逸話の真偽に揺らぎがあろうとも、立花宗茂の名は、まさに「西の猛将」として、戦乱の世に輝きを放っています。