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維新はなぜ大阪で勝ち続けるのか?

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
1930年代、「大大阪」時代の御堂筋地下鉄工事(提供:MeijiShowa.com/アフロ)
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 7日投開票の大阪W選は維新の圧勝で終わった。大阪府知事選、吉村洋文候補(226万票)対小西候補(125万票)。大阪市長選、松井一郎候補(66万票)対柳本候補(47万票)。いずれもダブルスコアに近い値で「圧勝」。維新コンビの事前の善戦・優勢が予想されていたとはいえ、大阪維新の「独り勝ち」は否めない。

 維新はなぜ大阪で勝ち続けるのか?そこには大阪の永い繁栄と凋落の歴史が背景にある。

 いや、大阪での維新のこれほどまでの強さは、大阪という土地の歴史と切り離して語ることはできない。大阪の栄枯盛衰の歴史を駆け足で紐解きながら、現代につながる維新の強さを紐解いていこう。

1)近世大坂の隆盛

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 近世(江戸)、大坂(近世以前の大阪の”阪”は”坂”)は、大坂の夏の陣(1615年)という未曾有の市街戦(豊臣vs徳川)を乗り越え、たくましく発展する東アジア随一の商都として繁栄した。元禄時代(おおむね5代将軍綱吉)以降、江戸日本の総人口は約3,000万と変わらなかったが、江戸、大坂の力関係もまた不変であった。

 政治都市としての江戸はその人口約80万人~100万人。対し、経済都市としての大坂は40万人~50万人。京都30万人とあわせた所謂「上方」の人口圏は80万人以上で、江戸日本は東と西の両極にバランスよく発展した半農国家であった。

 近代以前、物流の圧倒的多数は陸上交通ではなく海運であった。ことに大坂は蝦夷、東北、日本海側から瀬戸内を経由して伊勢、下田、江戸へと向かう「西廻海運」の中継地点であり、大坂堂島米市場(北区)は現在でこそオフィス街だが、江戸日本の経済、世界で最も進んだ金融取引の中心地点であった。

 まさに歴史教科書が言う「天下の台所」の形成である。こうした大坂の隆盛は独自の上方文化を発達させ、大坂の繁栄は決定的になった。

2)1925年、大大阪の誕生

「大大阪」を支えた木製紡績機(photoAC)
「大大阪」を支えた木製紡績機(photoAC)

 時代が明治に代わり、大坂が”大阪”と字を変えても商都大阪の地位はゆるぎなかった。明治国家は、軽工業国としてスタートし、その重要な輸出品目は紡績であった。そこで1882年、渋沢栄一らが主導として大阪紡績会社(現:東洋紡績)が設立され、それを呼び水に大阪には大小数十もの紡績会社がひしめき、日本を世界最大の紡績国家にならしめた。

 このような綿糸・綿織物業などの繊維産業を基軸とした大阪の産業は、大正時代に大大阪(だいおおさか)としていよいよその頂点を迎える。1923年、関東地方を巨大地震が襲う(関東大震災)と、首都圏から多くの産業本店や知識人が大阪に避難した。その結果、市域が急速に拡大。1925年、人口211万人、市域面積182平方キロ。対して東京は人口200万人、市域面積81平方キロ。大阪は日本最大の大都市になった。大大阪のスタートである。

 大阪の貪欲な拡張は目を見張るものがあった。大阪市制が施行された1889(明治22)年当時の大阪市は、人口47万人、面積15平方キロ。その後、第1次(1897年)、第2次(1925年)の市域拡張によって、人口は4.5倍、面積は12倍に膨れあがった。人口は、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次ぐ世界6位と公称していた。(*以上、データ・抜粋等は2013年4月6日、読売新聞)

 工業生産高も東京を超え、「東洋のマンチェスター」と呼ばれたのもこの時代である。次々と整備される近代的な御堂筋、地下鉄、通天閣、天王寺動物園。大阪と近郊を結ぶ私鉄も整備された。

 特に大阪と神戸間の阪神地域は、「阪神モダニズム」として多くの文化人が居住し、この時期日本における文化発信の中心地になった。ちなみに漫画家の手塚治虫はこのとき宝塚市におり、多感な青春時代を阪神モダニズムのど真ん中で過ごし、その経験を様々な作品の中に残している。こうして大阪は、経済・文化あらゆる意味で日本の中心と位置付けられたのである。

3)戦災と復興

町工場(イメージ、photoAC)
町工場(イメージ、photoAC)

 第二次大戦の戦火の魔手は、大阪もその例外とはしなかった。重工業都市・大阪と神戸は米軍の執拗な攻撃目標になった。しかし、東京は「帝都一円が焼け野原」となったのと違って、大阪には戦災のムラがあった。野田、福島、中之島、九条、中津、中崎など、市内中心部でも戦災を逃れた地域は割合に多く、そこには数次の再開発にもまれながら、現在でも往時の面影をしのぶ建造物が残っている。

 また関西圏まで拡大すると、京都と奈良はほぼ無傷のまま終戦を迎えた。このように帝都・東京や横浜が全滅に近い被害を被ったのに対して大阪の戦災はムラがあり、徹底的ではなかったため、終戦と同時に戦前からの重工業や軽工業が素早く生き返る素地を提供したのである。

 戦時中、大阪はすでに紡績都市から抜け出し、日本最大の金属加工産業都市に成長していたが、戦後は大企業主導というよりは中小零細の町工場がその復興をけん引した。

 朝鮮特需を経て、大阪は複合的なネットワークを持つ中小企業を担い手とした金属、機械部品の町として再生したのである。1964年東京五輪に続き、1970年の大阪万博開催は、見事に復興した東洋のマンチェスター再生の象徴でもあった。戦災から15年、大阪府の人口は戦前の最高水準だったおよそ470万人を超えた。大阪は復活した、かに思えた。

4)停滞と没落

不況(イメージ、photoAC)
不況(イメージ、photoAC)

 高度成長は、大阪の産業基盤を良くも悪くも固定化させた。それは大阪が優秀な中小企業による下からの産業都市であるという事実と、それがゆえに常に親会社、つまり大企業の動向に左右されるという構造を宿命的に抱え込むという構造を持った都市ということでもあった。

 経済が右肩上がりの際、大阪の中小企業も右肩上がりであった。しかし1970年代におおむね日本が安定成長に達すると、三大都市圏のなかで人口流入は東京一極となり、特に1980年代からは加速度的に東京一極化が進んだ。

 バブル経済の勃興は、さらにこの東京一極を加速させた。大阪は、巨大な中小企業の下請けであり、自由闊達な下からの経済発展が魅力の自由都市であったが、いつしか”官”が損失を補填しないと立ち行かない状況になった。つまり官尊民卑、民より官優先による公共事業とそれに伴う利権の拡張である。

 90年代に入るとバブル景気は本格的に萎んだ。しかしそれでも東京は、「製造業から付加価値産業へ」という産業構造の転換がはかられただけよかった。

 大阪の場合は、相互に連絡する巨大な中小企業の塊が製造業を形成していたため、その産業構造の転換そのものが東京に比べて大幅に遅れた。IT化、効率的機械化は資本の小ささがゆえに後手に回り、生産性は理論ではなく、職工のやる気と職人芸に支えられるようになり、次第にその弾力性を失っていった。

 そればかりか、高度成長時代に大阪とその周辺部にやってきた青年層がそのまま在地して高齢化し、下請けの仕事がなくなったし、さりとて転職するだけのスキルも持たないので生活保護をもらうしかない、という貧困の連鎖が至る所で起こった。

 特に生活保護率が高い地域は、大阪市内で(西成、浪速、生野、住吉、東住吉、大正、住之江)、府下で(東大阪、門真、守口)*H24大阪府資料(PDF)など、いずれも高度成長時代の中小金属・部品企業が集積したまま、付加価値企業に転換できないで、その零細工場までもがつぶれた後に取り残された住民らが多く住むとみられる地域である。

5)箱モノの乱立

無駄な箱モノの象徴、として批判を浴びたWTC大阪(住之江区)(photoAC)
無駄な箱モノの象徴、として批判を浴びたWTC大阪(住之江区)(photoAC)

 そうして弾力性を失っていった大阪経済を何とか再生させようと、官が無い知恵を絞って行ったのが、生産性向上と全く関係のない箱モノの乱立と補助金行政、あるいは行政の間隙を突いたある種の利権団体らの跳梁跋扈である。そしてその陰には常に大阪の自民党、公明党という既成の与党が癒着し、至る所に幅を利かせていた。

 気が付けば大阪は、2006年の段階でその総人口が神奈川に抜かれて全国3位に転落した。市としての人口はもっと早く、1980年前後に大阪市は横浜市に抜かれて3位になってしまった。

 ”脱大阪”の開始であった。ヒト・モノ・カネが大阪から去り、企業の本店は次々と大阪から東京にその所在地を移した。コスモ石油、カネボウ、住友商事、三井住友ファイナンシャルグループ、オートバックスセブンなどがその代表である。

 日本の資本主義を支えた多くの大企業は大阪発祥だが、形だけ本店登記は大阪に残し、実態の主要部門は東京に移るという企業も多かった。代表的な関西発祥企業では、パナソニック、サントリー、大林組、住友化学工業、丸紅などがその例である。

 これらの”脱大阪”現象は、大阪が持つ構造的な欠陥、つまり不採算な民間企業の不整理、非合理的な行政、旧態依然とした産業構造の温存である。これにより、大阪の空気は淀み、「美しい水都」は掛け声ばかりの状況であった。

 私がはじめて大阪を訪れた2001年。21世紀が始まったばかりだというのに、天王寺公園ではホームレスがたむろし、公共の噴水で堂々と全裸になって水風呂に浸かっていた。

 同敷地内ではテント小屋が足の踏み場もないほど乱立し、1曲50円で歌えるカラオケ小屋(不法占拠)が繁茂していた。難波駅前は乱雑に止められた大量の自転車と、タクシーの三重、四重駐車の無秩序なカオス的光景が広がっていた。このような大阪の零落ぶりを何とか止めようと、大阪住民のマグマが爆発したかのように立ち上がったのが大阪維新であったのである。

6)大大阪の復活なるか

 橋下徹氏が大阪刷新を掲げ、大阪府知事に初当選したのが2008年である。あれから10年以上が経過した。大阪はどうなったのかは、橋下以前の大阪を知っているものならば誰しもが皮膚で感じよう。

 天王寺公園からホームレスは消え、福祉職員がケアする体制が整えられた。三重、四重駐車はなくなり、御堂筋は東京のどの幹線道路よりも巨大で整然としたビジネス道路になった。あべのハルカスは日本で最も高い複合ビルとなり、あれだけ跳梁跋扈していたある種の利権団体の不正は、ここ10年でたちどころに暴かれ、そしてその主役たちは糾弾され、居なくなり、行政は透明化され不正や忖度の入り込む余地はなくなった。

 大阪は維新の登場により激しく変わった。橋下は2008年府知事立候補の時、「大阪、あー汚い街、と言われる(のを変える)」といった。現在、新大阪駅から梅田やミナミに南下して、この街が汚いと思う人は皆無だろう。大阪の復活はまだ始まったばかりだが、橋下府政以降の10年を皮膚で体感してきた大阪府民、市民が圧倒的多数で今回のW選挙の維新コンビにYESと言ったのは何ら驚くに値しない当然のことだと私は考える。

 2025年には大阪万博開催が決定している。私は万博はあってもなくてもよいと思っているが、100年越しに復活を遂げた大阪のシンボルとして、再生した大阪を世界に喧伝するのに絶好の機会であることは確かだ(了)。

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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