『光る君へ』で安倍晴明の言った藤原隆家が強い力となった出来事とは?
『光る君へ』第20回「望みの先に」で安倍晴明が「隆家さまは、あなた様(道長)の強いお力となりまする」と言ったように藤原隆家は日本の救世主になります。
今回はそんな藤原隆家と彼が活躍した出来事を紹介します。
※ドラマのネタバレになるかもしれないので注意!
藤原隆家の立ち位置
道長が政権を掌握する前は摂関家内部の争いが続いていました。下記の家系図を見るとわかるように藤原隆家は藤原氏の中でもエリート中のエリートです。
隆家はそんな摂関家の権力争いで負けた側の人間でした。
叔父・道長と兄・伊周の政権争い
父・道隆が政権を握ると、二人は父の意向でドンドンと出世していきました。しかし、道隆が死去すると兄弟の出世に陰りが見え始めます。
道隆は後継者に隆家の兄・伊周を推しますが、これまでの強引な息子推しは公卿達の不興を買い周囲から反対されることに。結局は道兼(※家系図参照)が関白の地位へと就く事になりました。
ところが、関白の地位に就いた道兼は数日で病没してしまいます。
伊周を取り巻く環境は変わらずじまいですから、結局は道長が政治の中心に置かれることになりました。この時に伊周側の人物として、隆家が叔父である道長と権力の座を巡って争っていきます。
伊周と隆家の大失敗【長徳の変】
そんな中、伊周と隆家の立場を決定的にさせる事件が起こります。
花山法皇と伊周の間で女性絡みのゴタゴタから、隆家が従者と共に法皇に向かって弓矢を射た長徳の変が起き、この事件がきっかけで伊周・隆家は左遷されることになりました。
朝廷に復帰するも…
かねてから病気がちだった詮子の回復を願う恩赦で京へ戻ることになった隆家は、徐々に復帰を果たし中納言まで昇進します。
一条天皇と定子の皇子・敦康親王の叔父が隆家でもあり親王を皇太子にさせて外戚となる道もありましたが、道長の長女・彰子が敦成親王を生むとその可能性が消えることになりました。「敦康親王が即位して隆家が補佐してくれれば」と周囲の期待もあった事から、隆家の踏ん張り次第で歴史が変わっていたかもしれません。
藤原隆家の病と太宰府
京に戻ったあと隆家は眼病を患うと、治療のために唐医がいる大宰府への赴任を希望します。
当時の天皇は承諾しますが、九州の勢力と隆家が結びつく事を恐れた道長が妨害し、大宰府への就任が先延ばしになりました。妨害の話は『小右記』によるものですが、『栄花物語』には道長も心を痛めており大宰府行きに賛成したという旨が書かれています。
刀伊の入寇
1014年に隆家がようやく大宰府へ向かう事となり、1019年に女真とみられる集団が壱岐・対馬を襲い、九州に侵攻した事件である刀伊の入寇が起こりました。
刀伊の入寇を鎮め、さらに善政を敷いたことで九州の勢力からの支持を獲得。中央に戻ると隆家を推そうとする勢力も出てきますが、中納言の地位にとどまっています。息子を昇任させる代わりに中納言の地位を辞退し、その後はパッとした功績は見られません。
晩年になって再度大宰権帥になり約5年務めあげました。
その2年後には正二位・前中納言として66歳で死去しています。
花山院と賭け事をしたり、あらくれものと呼ばれたりした隆家ですが、強い信念を持っている人で藤原実資は彼をかわいがっていたようです。こうした困難に屈しない信念を持った隆家を道長も一目置いており、こうした精神が国難に立ち向かうのに役に立ったのだと考えます。
そんな人柄から人望も伊周よりあったようで、道長やその息子・頼通にとって非常に厄介な人物だったと言えます。そのため、大宰府に置き続けずに目の届くところで監視していたのだろうと指摘もされています。
九州勢をまとめ上げた才覚を持った隆家。帰京から目立った功績がないのは、それ以上に道長・頼通(特に道長)の政争における力量がすごかったのだと伺えます。