【戦国こぼれ話】豊臣秀吉が自らの死に際して認めた、涙ぐましい遺言状の内容とは
「紀州のドンファン」の死から3年。また、事件が蒸し返されているが、遺言書をめぐってトラブルがあったという。今から約420年前、豊臣秀吉が自らの死に際して涙ぐましい遺言状を認めた。その全容とは。
■死ぬに死ねなかった秀吉
慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発したのは、豊臣秀吉の死が大きなきっかけだった。秀吉の死により、政権内の政治バランスが崩壊したのである。一方、秀吉には秀頼という後継者がいたものの、いまだに幼く、頼りにすべき縁者などもいなかった。
したがって、秀吉の晩年は、死後における秀頼の身の安全と豊臣家の繁栄を考えることに消費された。神経質なほどに各大名に起請文の提出を要求したり、さまざまな掟を定めたのは、その証である。秀吉は自分が死んだあと、秀頼がどうなるのか心配でたまらなかったのである。
■秀吉の遺言状
秀吉は死の2週間前の慶長3年(1598)8月5日、遺言として「豊臣秀吉遺言覚書」を認めていた(「早稲田大学図書館所蔵文書」)。この遺言には、秀吉没後の政権構想が書き記されている。次に、その内容を確認しておきたい。
(1)徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家は、秀吉の口頭での遺言を守り、また互いに婚姻関係を結ぶことにより、紐帯を強めること。
(2)家康は、3年間在京しなくてはならないこと。なお、所用のある時は、秀忠を京都に呼ぶこと。
(3)家康を伏見城の留守居の責任者とすること。五奉行のうち前田玄以・長束正家を筆頭に、もう1人を伏見に置くこと。
(4)五奉行の残り2人は、大坂城の留守居を勤めること。
(5)秀頼が大坂城入城後は、武家衆の妻子も大坂に移ること。
■遺言状のポイント
秀吉の遺言のなかで重要なのは、(1)の徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家を五大老のメンバーに確定したことである。
次に、家康を伏見城に置き、関東に下向させないことにより、その動きを封じようとした。前田玄以と長束正家は、家康の監視役と考えてよいであろう。
秀忠が家康の名代的な位置にあったことは、注目される。家康の不在時には、上洛を命じられていたのだ。秀吉はその死に際しても、徳川家がもっとも頼りになることを痛感したようである。
ほぼ同じ頃、別に秀吉が残した遺言の覚書も残っている(「浅野家文書」)。この覚書における、宇喜多秀家への記述は注目されるところだ。
秀家は秀吉から幼少時より取り立てられたので、秀頼を守り立てるよう強く要望したのである。というのも、秀家の妻は秀吉の養女・豪姫(前田利家の娘)だったので、親族の1人としてみなされていた。秀家が秀吉の親族だったがゆえに、大出世することができたといえよう。
そして、秀家が五大老の1人に加わった以上、贔屓・偏頗なく諸事に取り組み、政権維持のために政策を実行することを秀吉は期待していたのである。養女・豪の夫とはいえ、秀家はほとんど唯一の秀吉に近しい人間であったことが多分に影響していた。
■念押しする秀吉
さらに秀吉が五大老の面々に対して、秀頼を支えるように遺言状を残したことはあまりに有名である(「毛利家文書」)。かなり、念入りだったといえよう。
秀吉は五大老に対し、秀頼が一人前に成長するまで、しっかり支えて欲しいと懇願し、これ以外に思い残すことはないとまで書き記した。さらに、追而書(追伸)の部分では、「配下の五奉行(浅野長政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家)たちにも、同じことを申し付けてある」とまで述べている。
かなりしつこいといえるが、同時に秀頼を支えてほしいと懇願する秀吉に対して、涙ぐましさを感じざるをえない。親の子に対する愛情だ。
しかし、秀吉の願いは叶わず、関ヶ原合戦が勃発した。そして、慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣において、秀頼は秀吉がもっとも頼りにした家康に滅亡へと追い込まれたのである。