八村塁不在の日本サッカー界。協会、監督に異を唱えるべきは誰なのか
サッカーは様々な価値観がうごめく混沌とした世界。他の競技の比ではない。W杯予選への参加国は210。国連加盟数(196)をも上回る。地球の津々浦々まで浸透している果てしない世界。加えて決め手となるデータが決定的に少ないというサッカーの特殊性も輪を掛ける。
選択肢はほぼ無限。おのずと作戦も多岐にわたる。異論反論を含む様々な意見が巷に溢れることになる。サッカーの本質はそこにある。それを学んだのは欧州取材を通してだが、それに従えばサッカーの進歩発展は意見の総量に比例する。
だが一方で、ネットの普及と比例するように書き込みを怖がる人が急造。意見が述べにくい環境が急速に進行した。監督、選手は当たり障りのないコメントしか口にしなくなっている。
欧州人に言わせれば、日本や韓国など東アジア圏の書き込みは欧州などに比べると陰湿だとのことだ。たかがサッカーの話である。人の生死が掛かる政治や経済の話をしているわけではない。極めてライトな趣味の話、好みの話をしているにもかかわらず、ネットというアンダーグラウンドな世界では重く暗く、時に攻撃的になる。
そうならないためにはどうすればいいか。ヒントは依然、表の世界に立つ人間が自由に意見を述べ合う環境にある欧州にある。評論家、監督、指導者。メディアもその中に含まれる。その覚悟がない人。自らの意見を控えようとする人には職業的な適性がないと言いたくなる。それは鬱積する不満のガスを抜く役割をも果たすからだ。
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