日本の高校からNCAAへ。山﨑一渉&菅野ブルース「明成での学びに自信を持ちアメリカへで羽ばたく決意」
高校バスケ界で注目を集め、今春に仙台大学附属明成高(以下明成)を卒業した山﨑一渉と菅野ブルース。山﨑はNCAA(全米体育協会)ディビジョン1(D1)のラドフォード大へ。菅野はD1への編入を見据えて、NJCAA(全米短大体育協会)のエルスワース・コミュニティカレッジに進む。
ともに、進学が決まるまでは卒業後も明成の寮で生活を送り、附属である仙台大のサポートのもとで英語を学び、部活動の練習に出て進学準備を進めてきた。
2人のアメリカ留学への道のりは、高校の先輩である八村塁(ワシントン・ウィザーズ)がU17ワールドカップで注目され、NCAAの強豪からリクルートされたケースとは異なる。
コロナ禍ゆえに試合数が激減し、招待されていた国際的なキャンプが次々に中止になり、国際大会のデビューが高校3年次になったことで、世界舞台でのお披露目が遅くなり、手探りの中で準備が進められた。そんな中で2人は英語力の向上に励み、高校からの売り込みでリクルートの機会を待ち、最終的にはNCAAの各大学が定める英語の基準点をクリアしたことで入学に結びついた。
2人は入学前に各大学が行っているサマースクール(単位が取れる夏の集中講義)に参加するために6月中旬に渡米し、新しい生活をスタートさせている。互いに「親友でライバル」と認める山﨑一渉と菅野ブルースに、渡米直前、アメリカ留学への道のりと、今後の目標について語ってもらった。(文・写真/小永吉陽子)
「自分の殻を破らないといけない」と気付いたU19W杯
――アメリカの大学でプレーしたいと思ったのはいつからですか?
山﨑 高校に入学する前に(コーチの佐藤)久夫先生が「アメリカでプレーできるように頑張れ」と言ってくれて、それからアメリカでプレーしたいと思い始めました。そのあと、高1のときに(八村)塁さんがNBAにドラフトされて、その後もNBAで活躍するのを見て、自分もそうなりたいと強く思ってアメリカ進学を決めました。
菅野 自分も高1の頃からずっとアメリカでプレーしたい希望はありましたが、2年の時は怪我(左足の中足骨骨折/右膝蓋骨の亜脱臼)をしていたので、進学のことよりも、まずは怪我を治したい思いがありました。アメリカに本気で挑戦したいと思ったのは、高3の夏にU19ワールドカップに出てからです。アメリカの大学にスカウトされるためにもU19で活躍することが大事だと思っていたんですけど、実際に出てみたら世界にはすごい選手がたくさんいて、もっと自分の殻を破らないとダメだと思い、だからこそアメリカに挑戦したいと思いました。
山﨑 自分もU19に出てみて、アメリカでプレーしたい気持ちが強くなりました。技術というより、フィジカルや身体能力で歯が立たないことが多くて、それが悔しかった。自分は日本の中だったら動けるほうかもしれないけど、海外に行けばそうではなくて。言ってしまえば、日本ではやれてしまうところがあるので、アメリカで自分の限界にチャレンジしたいと思うようになりました。
――アメリカでの進学先が決まり、今の心境は?
山﨑 ワクワクしています。いろんな大学から話が来たり、ダメになったりと繰り返す中で、やっと5月になって、ギリギリですけどD1(NCAAディビジョン1)に決まったことはうれしいです。塁さんが行ったゴンザガのような高いレベルの大学ではないですけど、スタートラインに立たせてもらったことに感謝しています。
菅野 ここまで来るのに、英語の勉強やコロナのこととか本当に大変だったので、決まったことにホッとしているのが一番の感想ですが、今は早くアメリカでプレーしたいので、自分もワクワクしています。
――進路決定に至るまで大変だったことは?
菅野 D1のコーチから興味があるという話をもらってZOOMミーティングをしてもなかなか返事をもらえなかったり、最初の方は英語の点数が足りずにダメになった話もありました。英語のテストを何度も受けながら張り詰めた生活をしていて、本当に決まるのかどうか、不安で眠れないときもありました。
山﨑 なかなか決まらない中でも高橋さん(留学を担当した明成バスケ部の高橋陽介アシスタントコーチ 兼 アスレティックトレーナー)がずっと動いてくれていたので、自分たちに何ができるかと考えたたら、とにかく英語の点数を伸ばすことだというのか明確だったので、そこに集中していました。
僕は高橋さんから「チャンスは必ず来るから、それに対して常に備えておくことが大事」と言われた言葉が印象に残っていて、本当にその通りだなと思って毎日を過ごしました。だから、ブルースと一緒に部活の練習に出て、バスケをしているときがストレス解消になってすごく楽しかったです。
決め手は「いいシューターがほしい」「1年でD1へ」
――山﨑選手はラドフォード大学、菅野選手はエルスワース・コミュニティカレッジへ。それぞれ進学の決め手になったことは?
山﨑 いくつかD1のフルスカラシップ(全額免除の奨学金)の話をもらった中で、最終的には2つの大学で迷いました。もう一つのほうがラドフォードよりランキングが高かったのですが、ZOOMミーティングで話を聞いてみると、自分のことを大切に思ってくれて、面倒を見てくれそうだったのがラドフォードだったので自分で決めました。
菅野 僕もいろんなD1のコーチと話をしたのですが、最終的なオファーにつながりませんでした。落ち込むこともあったんですけど、フルスカラシップで獲りたいと声をかけてくれた短大とプレップスクールがあったので、そこで気持ちを切り替えて、どうすれば自分にとっていい道なのかを考えました。短大だと4年制に編入しても単位がそのまま持ち越せるので、D1に編入したときにスムーズにいくということで、短大に決めました。
――それぞれ、大学のコーチと話をして印象に残ったことはありますか?
菅野 コーチ・ベンダー(ブライアン・ベンダーヘッドコーチ)は今年からヘッドコーチになった人で、短大からD1に何人も行かせた実績があって、「ブルースを絶対に1年でD1に行かせる。一緒に世界を驚かそう」と言ってくれて、その言葉が本当に心強かったので、エルスワースに決めました。自分としても「2年じゃなくて、1年でやってやる!」という気持ちです。
山﨑 コーチからは「一渉のようないいシューターが欲しかった」と声をかけてもらったのがうれしかったです。ZOOMミーティングでもヘッドコーチだけじゃなく、アシスタントコーチやトレーナーの方も入ってくれて全員と話ができています。最近のミーティングではアシスタントコーチが「実家での生活は楽しいか?」「日本語を教えてほしい」と言ってくれたので、留学生に対して気を遣ってくれているのがわかります。そういう面では安心しています。
八村塁に憧れて明成の門を叩く。「塁さんは男の中の男」
――2連覇を目指した高3のウインターカップでは、準決勝で福岡大学附属大濠に接戦で敗れました。改めて振り返り、今思うことは?
菅野 ウインターカップは自分がポイントガードとして未熟で、ゲームコントロールする力が足りなくて、ガードの差で負けたと思っています。ただ、自分としては2年生のときに怪我で大会に出られなかったので、思い切りやろうと思ってそれはできたし、アグレッシブにやることが大事なんだと気付けた大会になりました。
――菅野選手が準決勝で相手のボースハンドダンクをブロックショットで止めたプレーは衝撃でした。八村選手も2年のウインターカップ決勝の勝負所で、ダンクに行くところをブロックしているのですが、菅野選手はダンクでゴールする寸前のところを、猛スピードで走ってきて叩き落としました。あれは会場が沸きました。
菅野 あのブロックは自分でも「やっと跳べた…」と思いました。久夫先生も「高校生があのようなダンクをブロックしたのを初めて見た」と言ってくれたのでうれしかったです。それまでは怪我の再発が怖くて体をよけながらシュートすることもあったんですが、あのブロックで自信が出て、今では接触しながらフィニッシュができるようになったし、体の使い方がうまくなっていると自分でも感じます。
山﨑 僕は2年生のときに優勝したことも、3年生で負けたことも、両方忘れられないですが、今思うのは、3年のウインターカップに向けては自分なりにやったつもりだったけど、まだまだ足りなかったんだなということです。目標は達成しないかぎり後悔が残ります。辛いのは一瞬、後悔は一生だと気付いたので、今やれることをもっと大事にして、チームを勝たせられる選手になります。
――2人は八村塁選手に憧れて明成に入学したとのことですが、どういうところに憧れているのですか?
山﨑 初めて塁さんを見たのが僕が小4のときで、塁さんが高1のウインターカップで優勝したときでした。その時はこんなにすごい選手がいるんだなあと思い、僕が小5のとき、地元の千葉でインターハイがあったので毎日見に行ました。そこでどんどん惹かれていって「この人みたいになりたい」と思いました。塁さんはプレーもすごいけど、気持ちを出してチームを引っ張るところがエースというか、男の中の男って感じです。そこは自分にはないところなので憧れます。インターハイを一緒に見に行った母に「高校は明成に行く!」と宣言したほどです(笑)
――そのときのお母さんの反応は?
「目標ができて良かったね。明成に行くにはもっと練習しないとね」だったような気がします(笑)。インターハイの決勝では塁さんと納見さん(悠仁、川崎ブレイブサンダース)がU17ワールドカップに出るのでいなかったんです。当時はなんで決勝に出ないのかわかりませんでしたが、それでも、エースがいなくてもチームが一つになって戦っているのが、明成のいいところだなあと思いました。
菅野 僕は8歳のときにニューヨークから岩手に来てバスケを始めたんですけど、コーチや学校の先生、周りの皆さんに本当に優しくしてもらって感謝しているのですが、ハーフということで、みんなと見た目が違うことに自分自身が引いてしまうことがありました。それで、小6のときに明成がウインターカップで3連覇したのを見て、塁さんの活躍や笑顔を見ていたら「自分も思いっきりやっていいんだな」と勇気をもらえたので、それから憧れの存在です。
――菅野選手は来日してどれくらいで日本語を覚えたのですか?
菅野 完全に覚えるまで2年くらいかかりました。最初は英語しか話せなかったのが、今はまったく逆で、この10年で英語をしゃべらなくなってしまったので、すっかり忘れてしまいました。だから英語の勉強はかなり苦労しました(苦笑)
バスケットボールコートは人生のレッスンの場
――明成の3年間で学んだことは?
山﨑 たくさんあるんですけど……僕は高校に入ってバスケの考え方が180度変わりました。中学でもチームで戦うこと意識していたんですけど、明成では自分を犠牲にしてチームのためにプレーすることが、どれだけチームにいい影響を与えるのかということを学びました。自分だったらエースの仕事を任せてもらったので、点を取ることが役割だけど、そこはチームメイトの役割があって成り立っています。だから自分は苦しいところで得点を取りに行くし、体を張ってリバウンドを取らないといけないです。
菅野 自分は怪我で1年を棒に振ってしまったけど、それ以上に学ぶことが大きかったです。学年が上がるごとに、バスケが上達するには人間力というのが大切だとわかるようになり、自分がチームのためにどれだけ犠牲になれるか、どれだけチームを愛しているか、チーム愛が大切だと学びました。久夫先生はいつも「バスケットボールコートは人生のレッスンの場」だと言っていて、英語の勉強をしているときに辛くても目標のために頑張れたので、本当にその通りだなと思いました。
山﨑 絶対に言えるのは、高校で日本一の指導者に教わったので、自分たちがやってきた3年間に自信を持って、これからもやっていきたいです。
菅野 自分もそう思います。
山﨑 自分は明成で一番怒られていて、「何で自分ばっかり…」と思うこともあったんですけど、3年生になって「久夫先生は自分のことが好きなんだな」と先生の愛に気付くことができました。本当は最後に優勝して恩返しがしたかったんですけど、結果で恩返しができなかったので、返しきれない恩かもしれないけど、これから精一杯返せるように頑張ります。久夫先生、高橋さん、大好きです!(笑)
菅野 僕も大好きです!(笑)。同期も先輩も後輩も、みんながファミリーのような3年間でした。
――今後の目標と課題を聞かせてください。
山﨑 自分の夢はNBA選手になって活躍することです。そのために、より高いレベルのチームでプレーすることにもチャレンジしたいですが、今は自分のことを獲ってくれたラドフォードに感謝して、環境に早く慣れて活躍することが目標です。自分の一番の持ち味は3ポイントですが、明成ではドライブも、走ることもやってきたので、自分の武器を持ちながらも、やれるプレーを増やしていきたいです。
菅野 自分はD1に編入することが今の目標ですが、最終的な目標はNBA選手になることと、日本を代表する大型ポイントガードになることです。だから、D1のコーチやスカウトに目をつけてもらえるように目立ちたいので、この1年が勝負だと思っています。課題はたくさんありますが、シュート力とハンドリング力をつけないと通用しないので、そこを特に頑張ります。
――渡米に向けてお互いにメッセージを。
山﨑 ブルースとは中学生の頃から代表チームで一緒になって、同じ高校に行くと決まったときはうれしかった。ブルースはすごく優しい性格で、親友であり、一番のライバルだと思っています。卒業後に寮に残って英語の勉強をしていたとき、2人で将来について話したことは忘れないと思う。これからはもっと大変になるけど、一緒に頑張っていこう。
菅野 イブ(一渉)とはU13の合宿で知り合って、その頃からこんなに身長が高いのに、スリーが入って上手すぎて衝撃を受けました。高校でチームメイトになれてうれしかったし、僕たちや紀人(山崎、中央大)にしかできないバックドアを成功させたときは楽しかった。僕もイブが一番のライバルだと思っています。2人で励まし合ってここまでやってきたので、これからもお互い頑張ろう。
佐藤久夫コーチから「イブ&ブルース」にメッセージ
「八村塁をアメリカに送り出したあと、今度はアメリカでプレーしたい選手を計画的に育てて送り出したいと考えました。それが塁に憧れて入学してきたイブ(一渉)とブルースです。
そんな中でコロナという壁が出てきて、世界とコミュニケーションを図るチャンスがなくなっていきました。そこで2人をどうやって成長させようかと考えたとき、イブはシュートセンスがあるので、サイズがあってどこからでも打てるシューター。ブルースは将来性のある大型ガードとして売り出していこうとしました。
イブはウインターカップ後に3ポイントの距離をどんどん伸ばし、今までよりクイックにディープスリーが打てるようになってきました。もっと体幹を使ったパワープレーもやってほしかったけど、それは大学での宿題。体幹を鍛えればプレーに幅が出てくるし、シュートの打点も上がるはず。大学でもっともっとトレーニングをして、自分を鍛えてほしい。
ブルースは3番(SF)をやるならば、言い方は悪いけれどただの選手。未熟だけどポイントガードになれば、あのサイズでボールを扱えて、豪快なドライブができることが売りになり、それがアメリカへの道につながると考えてコンバートしました。難しいポジションゆえに迷いが生じ、本人とは「やるか、辞めるか」の押し問答を何度もしましたが、ポイントガードが面白くなってきたのか、自分のほうから「絶対にやりたい」と言って意志を曲げませんでした。
ガードとしてはまだまだこれからの選手。もっとバスケットボールを理解して、ゲーム運びの面で勉強しなければなりません。高2の1年間、怪我で練習ができなかった分、習得が遅れているところはあります。ただ、怪我をしたときにトレーニングを頑張って、体を一回りも二回りも大きくする努力をしました。今では身体接触を怖がらずにキレのいいダンクをして、視野も少しずつ広がっています。これから伸びる引き出しを持っている選手です。
ブルースは日本の歴史上で一番大きなガード、イブも日本の中でサイズがあるシューターになって、大きくても動ける選手として、日本のバスケを面白くしてほしいですね。
2人をどうやってアメリカに送り出そうかと考える一方で、私の根底には「日本の大学をもっともっと高めていかないと」「日本から世界で注目される選手を育てていかなければ日本のバスケは変わらない」という思いも常にあります。そのためには、日本の大学のシステムから変えていかなければなりませんが、2人には日本の大学バスケを誰よりも引っ張ってもらい、日本から世界に飛び出していく選手になってほしいと、日本の大学を勧めたこともあります。けれど、2人はアメリカで夢を追う意志を貫きました。
高校を卒業してからも、イブとブルースは勉強の合間に後輩たちと一緒に練習をしましたが、その数ヶ月でグンと伸びています。後輩たちに「自分のことばかり考えるな」と叱り、檄を飛ばしていました。自分の目標に向かって猛勉強をしたことで心が成長し、プレーも伸びているのでしょう。
高校でやってきたことが出てくるのはこれから。本当にこれからです。アメリカでは自分のすべてをかけてバスケットボールに取り組み、たゆまぬ競争の世界で牙をむいて戦ってほしい。
山﨑一渉 Ibu YAMAZAKI
2003年7月10日生まれ/200センチ、95キロ/千葉県出身/松戸一中→仙台大学附属明成高/■母・幸子さんが語る名前の由来「一渉の父はギニア人でイスラム教徒。イスラムの神アッラーから啓示を受けた預言者「イブラヒム」から「イブ」と名付け、漢字では一歩一歩渉るとの願いを込めて」■血筋は母譲り/母の幸子さんは東京成徳大高バスケ部出身で身長180センチ。ミニバス時代は母と1対1をして育った。■大学での背番号54の理由/「高校の2年先輩で明成の寮監をしている熊谷壮紘(仙台大)さんの明成時代のビブス(練習着)番号です。熊さんには自分がダメな時に相談に乗ってもらい支えてもらったので、熊さんの番号を背負って戦いたい」■大学で楽しみなこと/「ワシントンまで飛行機で1時間なのでNBAを見に行きたい。明成のビブスを着て手を振ったら塁さん気付いてくれるかな(笑)」
菅野ブルース Bruce KANNO
2003年5月6日生まれ/198センチ、93キロ/ニューヨーク生まれ/花巻中→仙台大学附属明成高/■母・陽子さんが語る名前の由来「ブルースの父(ジャマイカ-アメリカン)がブルース・リー(Bruce Lee)のファンで『ブルース・リーのように強くなってほしい』と命名」■血筋は母譲り/母の陽子さんはボーカリスト。2つ上の姉キアナさんとともに子供の頃から歌って育った。■大学での背番号11の理由/「明成のビブス番号の16にしたかったけど空いてなかったので、クレイ・トンプソンのようにシュートが入るように11に。一番になりたいから1を並べました」■最近うれしかったこと/身長が伸びたこと。「昨年12月に裸足で計測したら197センチ、5月には裸足で198センチに伸びていました。今までバッシュを履いた身長を公表していたけれど、今はバッシュを履いたら2mあります」
(※シーズン開幕前に背番号を「00」番に変更)