安倍一強を支えるメカニズム ーなぜ強い内閣は生まれたのかー
ここのところ、安倍内閣の支持率低下が報道されていますが、少し前までは、「安倍一強」といわれるような状況が続いていました。アベノミクス、特定秘密保護法案、安保関連法案、テロ等準備罪など、議論を呼ぶ政策を行っているにも関わらず、野党に対しても、自民党内に対しても、官僚に対しても、どっしりと揺らぐことのない安定ぶりを見せつけて、4年半にも渡る長期政権を実現しています(在任日数では戦後第3位)。その理由については、日本が右傾化しているのだとか、安倍総理が優れているからだとかその個人的資質に帰着させるもの、または野党がだらしないからだといったような論考も見られます。
しかし、そうした時代の空気や、安倍晋三個人の能力によるものなのでしょうか? いや、安倍政権が長期安定政権となったことには、それなりの理由があります。これは戦前から戦後、そして1990年代以降と、選挙制度が変更され、官僚に対する政治家のコントロールを強化し、とりわけ内閣の機能を強化してきたことによるのです。本稿では安倍政権がいかにして長期安定政権となりえたのかということを、制度面から見てみたいと思います。
大日本帝国憲法時代の総理の権限
そもそも戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)下においては、総理大臣の権力基盤はとても脆弱なものでした。明治憲法は、プロイセンの憲法をモデルにしていて、君主の権限が強く、日本においても、君主である天皇が行政・立法・司法・軍事を統括する国家元首でした。
第4条
天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
総理大臣は内閣の首班として行政府全体に対する直接の指揮監督権を持つとされていましたが、憲法には、「内閣」や「内閣総理大臣」という文言すら存在せず、各国務大臣は天皇を直接補佐するものとされ、内閣総理大臣は、「同輩中の主席」とされ、閣僚の任免権を有していませんでした。そのため総理がリーダーシップを発揮することができず、軍部の独走を許す結果を招いてしまいました。
戦後生まれ変わった内閣
戦後、新しい憲法が制定されるにあたり、この辺の反省を踏まえて内閣の権限を強化するかたちの統治機構が作られました。戦後の日本国憲法では、議員内閣制が確立され、内閣が国会に対して連帯して責任を負うとされています(憲法66条3項)。そして、行政権を内閣に与えるものの、総理大臣が内閣の首長であると明記しています(憲法65条、66条1項)。さらには閣僚の任免権や法案の提出権を有しており(憲法68条、72条)、解釈上衆議院の解散権も持っているため(7条)、戦前と比較するとその権限は飛躍的に大きくなっています
もっとも、すでにこの時点で、官僚と政治の権力闘争は始まっています。法制官僚が抵抗を示し、「国会に対し連帯して責任を負う」という文言の解釈から、閣議は全会一致であるという原則が生まれ、内閣法でも「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(内閣法6条)と明記されました。これによって国務大臣は事実上の拒否権を有し、結果的に各省庁の官僚が拒否権を持つことになります。
また、閣僚の罷免という伝家の宝刀が抜かれることは極めて稀であり、これまで実際に行われた、閣僚の罷免は、片山哲内閣の平野力三農相、吉田茂内閣の広川弘禅農相、中曽根康弘内閣の藤尾正行文相、小泉純一郎内閣の島村宜伸農相、鳩山由紀夫内閣の福島みずほ内閣府特命担当大臣と、わずか5回に限られています。
このように総理大臣の政治主導は、実際には内閣法などにより大きく制限されることになります。
官僚主導を方向づけた吉田学校
また、占領の前後を通じて長く総理大臣を務めた吉田茂が、党人政治家の能力を信用せずに、池田勇人、佐藤栄作、橋本龍五といった官僚出身者を重用したため、官僚支配が確立されます。官僚は一流の大学を卒業しており、頭脳明晰で高い実務能力を誇りますが、ときに国家という全体最適よりも、出身・所属省庁という部分最適である省益を優先して動くことがあります。また、選挙に落ちたらただの人となってしまうため常に選挙区に気を配らなければならない国会議員と違って、彼らの頭脳には網目のような張り巡らされた膨大な法令や前例の海が広がっております。したがって、膨大な監督権限、法律の解釈権と省令制定権、各種行政指導権限に基づき、実際には官僚が法律を作り、解釈し、運用するという、まさに「官僚主導の政治」が常態化していきます。結果的に、彼らに依存しなければ行政が立ち行かないという状況が作り出され、組織上のトップは大臣でも、実際には、事務次官を頂点とする官僚機構が日本の政策を動かしていました。
派閥と族議員がリーダーシップを奪う
加えて、政府与党である自民党内に存在する派閥や政調部会が、意思決定の分散を招き、総理総裁のリーダーシップ発揮を困難にしていました。1955年の保守合同の結果、旧自民党系=池田派、佐藤派、大野派、旧民主党系=河野派、岸派、石橋派、旧改進党系の三木派という「自民党八個師団」という派閥の源流が生まれます。
ここから、1970年代には、中選挙区制とあいまって三角大福中といった領袖をトップとする5大派閥ができあがり、派閥が政府や党内の人事において大きな影響力を持つようになります。実際には派閥は政党内政党であり、自民党政権が続いているようでも、総理大臣の椅子を派閥間で回すことによる擬似政権交代が行われていたのでした。こうしてみると戦後一貫して自民党長期政権が続いているように見えますが、見方によっては中選挙区制ゆえの少数政党が乱立しており、政権が頻繁に交代する仕組みであったとも言えるでしょう。
派閥政治は、派閥主導による均衡人事を生みました。順送りの閣僚人事は、岸信介が始めたと言われていますが、これは毎年内閣改造を行い、派閥から推薦された人物を順番に閣僚に就任させていくものです。派閥は、閣僚、政務次官、委員長、党内ポストをグループ内のメンバーに分配する機能を果たしていました。佐藤内閣時代に派閥のサイズによって配分することが慣行となり、また、1980年代には6期目であればどんな人でも大臣になれるという慣行が確立されていたと言われています。
当該人物の適性や資質とは関係なく、しかも毎年変わっていく大臣ですから、行政に深い見識を持つことは難しく、素人である大臣と行政のプロである官僚の知識の差は歴然たるものです。こうした派閥主導の閣僚人事は、官主導の政治に拍車をかけるものでした。
また、政府が提出する法案であっても、事前に自民党内で意見調整を行うという慣行が確立されていきます。結果的に、審議調整の場として自民党内の政調部会の果たす役割が大きくなり、さらに各部会に議員が所属することによって省庁の権益と固く結びつき、いわゆる族議員を多く生み出すこととなりました。
閣議は、内閣の最高意思決定機関であり、内閣が提出する法案は閣議決定が必要です。しかし、閣議に諮られる事項は、すべて事前に事務次官会議で決定されており、事務次官会議で了承されていないものは閣議の議題となることはありませんでした。また、閣議における閣僚の発言は事前のシナリオに沿って行われており、予定外の発言はほとんどなされず、実際には、事務次官会議の結果を最終確認するセレモニーとなっていきます。
1990年代の政治改革
こうした官僚主導、派閥主導の政治状況は、様々な方面から批判を浴びつつも、1980年代まではその命脈を保っていました。
しかし1990年代に入り、バブルが弾け日本の経済成長に陰りが見え始め、また、冷戦の終結に伴い、グローバル化時代が始まると、状況が大きく変わっていきます。さらに90年代後半になると、同様に住専問題、薬害エイズ、官僚の過剰な接待などが世間の知るところとなり、官僚バッシングの大合唱が吹き荒れ始めます。
官僚主導の政治を国民の手に取り戻し、腐敗した金権派閥政治を打破し、強い政治のリーダーシップが求められていくようになるのです。
そうした中で、自民党最大派閥の経世会会長である金丸信の逮捕をきっかけとして、政治制度改革が叫ばれ、1993年には竹下派の分裂から自民党が下野し、細川連立政権が成立します。細川政権では政治制度改革が実施され、これまでの中選挙区制から小選挙区比例代表並立制へと大きな変革を遂げました。
また橋本龍太郎内閣では、行政改革会議での審議に基づき、中央省庁再編(1府12省へとスリム化)が実施され、さらには、副大臣・大臣政務官制度を導入することによって、省庁における政治人材の強化が図られます。
さらには、内閣の機能も強化され、内閣総理大臣の首長性(内閣法2条)や閣議における首相の発議権限が内閣法に明記されています(内閣法4条2項)。
また、内閣官房の強化も図られました。内閣法12条では、内閣の重要政策を「企画及び立案する」権限が内閣に官房に与えられました。これまで「立案」というのは霞が関では「法案を作る」ということを意味していたため、この文言を入れることについては官僚が強く抵抗したのですが、最後は橋本総理の鶴の一声で「立案」の文言が規定されることとなりました。内閣官房内には、内閣官房副長官(内閣法14条)、内閣危機管理監(同法15条)、内閣広報官(同法19条)、内閣情報官(同法22条)内閣総理大臣補佐官(同法22条)などの役職が新たに設置され、さらに、2000年5月閣議決定では、内閣官房に「戦略的かつ主導的に政策調整」を行う権限が与えられ、内閣官房が「最高かつ最終の調整機関」であると決定されています。
さらには、総理秘書官・総理補佐官を増員することも決定しています。これは総理大臣の手足となる政治家、官僚を増やすことで、大臣以下の各省庁で行う行政を統合し、官邸主導で政策を進めることが狙いです。
小泉改革という嵐
そして政治主導、官邸主導の政治を決定的なものとしたのは、2001年4月に誕生した小泉純一郎内閣でした。
「自民党をぶっ壊す」というスローガンを引っさげて、誕生した小泉内閣はまさに小選挙区制度が生んだ内閣でした。中選挙区制の時代には、複数の議員が同一選挙区から選ばれていたため、地元民が陳情をするのはより強い政治力を持つベテラン議員に集中することとなり、これが自民党内における当選回数の序列構造をかたちづくっていたのでした。しかし、小選挙区制となると、ベテラン議員も若手議員も同じ一国一城の主です。当選回数や派閥における序列は意味が薄らいでいき、派閥の領袖の権力を発揮することは難しくなり、代わりに政党の公認を出すかどうか決定する執行部の権限が増大しました。他方で、これまで最大派閥として自民党を牛耳ってきた経世会=平成研究会の支配力が低下していきます。経世会は小渕恵三氏を最後に、総理大臣を出していません。
特に2005年の郵政解散では、8月に郵政民生化法案が参議院で否決されると小泉総理は衆議院を解散します。このとき法案に反対を投じた候補者は党の公認を得ることができず、むしろ「刺客」という名の反対候補者を立てられてしまいました。派閥のボスだろうが大物議員だろうが一向にお構い無しで、総理総裁に抵抗するものはすべて「抵抗勢力」であるとして、駆逐されてしまったのです。小選挙区制においては、もはや派閥は過去の遺物と成り果てていました。
また小泉内閣では、前述の橋本行革の結果、再編された省庁、強化された内閣府・内閣官房をフルに活用します。
政務担当秘書官(主席秘書官)に加え、財務・外務・経産・警察の各省庁から、主要課長を経験した年次のエリートを事務担当秘書官として並べ、さらには、厚生労働・総務・防衛・国土交通・文部科学(後に農水)の各省庁連絡室参事官を配置し、省庁の切れ者を官邸に集結させます。
また、5人まで増員された首相補佐官も、イラク問題担当の岡本行夫、道路公団改革担当の牧野徹元建設事務次官、外交特命事項担当の川口順子元外務相、郵政民営化担当の渡辺好明元農水次官、政務担当の山崎拓元幹事長といった陣容とし、各省庁にまたがった首相直轄の政策の推進役として機能させました。なお、昨年公開された映画『シン・ゴジラ』では、まさに矢口官房副長官(長谷川博己)、赤坂総理大臣補佐官(国家安全保障担当)(竹野内豊)といった官房のメンバーが、各省庁を主導して未曾有の危機に立ち向かっている様子を克明に描き出しています。
さらに小泉内閣では、橋本行革の成果である内閣府もフル活用します。首相をトップとし、正副官房長官が指揮権を振るう内閣府では、経済財政、原発問題、拉致問題担当などの様々な政策に応じた特命担当大臣を内閣府に置くことができるため、補佐官とあわせて内閣府主導の政策推進が可能となりました。
特に、内閣府内に設けられた経済財政諮問会議(内閣府設置法18条)を通じて、構造改革を推進します。経済財政諮問会議では、総理が構成員全員の指名権を持ち、そして会議の決定事項についても全権を持っているため、非常に強い指導力を発揮することができます。経済財政諮問会議は財政政策・予算編成の基本方針を決める機能を果たしますが、これは、国家の要諦を占める財政政策・予算編成の権限が、全部ではないにせよ、霞が関最強官庁である大蔵省から内閣官房に移ったことを意味しています。
失敗した民主党政権の「政治主導」
2009年に16年ぶりの政権交代が実現し、自民党に変わって民主党が政権与党となりました。このとき民主党は、自民党と強く結託した官僚主導の政治を批判し、「政治主導」を強く訴えています。9月16日に成立した鳩山内閣は、初の閣議を開き、「国民主権を確立すべく政治主導を推進するための制度変更を行う」という基本方針を発表しています。
各省庁の運営に関わる政治家を増やすために、大臣・副大臣・政務官からなる「政務三役会議」を設置し、制作の立案・調整・決定は、国民の付託を受けた政治家が責任をもって行うことを目指し、官僚を徹底して排除しました。
もっとも、各省では政治家がチームとして機能せず、あろうことか内部での政治闘争に明け暮れてしまったため、この構想は見事に失敗します。さらに、行政実務に通暁した官僚を排除してしまったため、必要な情報が政治家に入らなくなってしまったのです。
菅直人副首相が担当した国家戦略室も、他省庁の調整に追われ機能することはありませんでした。結果的に小泉内閣で政治主導になった予算編成も2011年度予算では、完全に財務省に依存する羽目となっています。
さらに、 鳩山内閣は、官僚政治の象徴である事務次官会議を、9月14日をもって廃止しました。しかし、事務次官会議は実際にはとても重要な調整機能を果たしていたのです。いつどの政策を会議に諮るか、どれほど調整が進んでいるか、といった政策情報が官邸に入っていたのは事務次官会議で重要な政策決定が機能していたからなのでした。そして次官レベルだけではなく、局長や課長、課長補佐レベルでそれぞれ実施されていた省庁間の調整もなくなってしまったのでした。省庁間で調整が必要となった場合、これまでであれば官邸が主導権を主宰することで調整することができたのですが、その機能も失われてしまい、結果として官邸の役割が低下してしまったのです。
なお、事務次官会議は、東日本大震災直後の2011年3月22日に実質的に復活しています。
第2次安倍政権における改革
そして2012年12月、自民党安倍政権が成立し、民主党から自民党が政権を奪還します。安倍晋三総理大臣は、「アベノミクス」と呼ばれる経済政策を撃ち出すとともに、内閣官房と内閣府に集中的な改革を実施します。
2001年には186人だった内閣官房の定員が、2012年には807人となり、2015年には1007人、そして現在は1100人を超えています。その増員分のほとんどを占めるのが、内閣人事局と国家安全保障局です。
内閣人事局は、公務員制度改革の一環として設立された機関です(内閣法21条)。これまで各省における局長以上の人事は、省内で決定した後、内閣の承認を経ていたのですが、新制度では、部長・審議官級以上の幹部職員・閣僚推薦者について、内閣人事局が適格性審査を経て幹部候補者名簿を作成し、これをもとに各省が人事案を作成し、首相・官房長官・閣僚が任免について協議した上で決定します。これにより、各省幹部人事を内閣官房・官邸がコントロールすることができるようになります。
また、国家安全保障局は、2014年にアメリカのNSCをモデルにして設置された国家安全保障会議の事務局を担う機関です(内閣法17条)。国家安全保障会議は、従来の9大臣審議も残しつつ、首相、官房長官、外務、防衛の4大臣会合を中心とし、外交・安全保障について内閣主導のもと一元的な政策の実施を行います。その事務局である国家安全保障局は、まさに外務省と防衛省との統合・調整を行うための機関と位置づけられています。
まとめ
さて、長々と書いてきましたが、結論としては、安倍晋三の長期政権とは、一朝一夕にできあがったものではなく、これまでの戦後、とりわけ1990年以降の改革の賜物なのです。小選挙区制によって党内における総理総裁の権限が増し、橋本行革によって官僚機構に対する政治、とりわけ内閣の優位性が増してきたことによるのです。
これら一連の制度改革は、ひとえに冷戦終結と経済成長の停滞に起因するものであって、それ以前の調整型の「ムラ型政治」では機能しなくなってきたことが原因です。その意味で、日本の政治は、高度成長期以降においても、完璧ではないにせよ、ある程度適切に状況に対応しているといってよいでしょう。
肝心なのは、一貫して内閣総理大臣、そしてそれを支える内閣官房に権限を集中させることにより、より機動的で統合的な国家戦略、政策立案を可能にするため、すなわち「決められる政治」を可能にするための改革がなされてきたことです。もちろん人の作るものですから、この世に完全無欠な制度はありません。権限を集中させることの弊害は当然にあるでしょう。しかし、だからといって、元の昭和、そして戦前の政治制度に戻すことは、混迷した現代の政治状況に鑑みるとき、決して好ましいものではありません。長期政権は、一貫した政策の遂行をもたらし、政治・経済・安全保障において安定をもたらすことは明らかです。結局は、民主政においてその制度をいかに運用していくか、主権者たる国民次第なのです。