MLBが普及に努めたウクライナ。ソ連崩壊後の貧困と「少年たちの夢」
あってはならないことが起こってしまった。ロシア・プーチン政権によるウクライナ侵攻である。元々兄弟民族の国と言っていい両国の間に戦争が起こってしまったことは許せないことで、一市井人として、ロシア軍の早期撤兵を望まずにはいられない。
両国は、かつての共産主義国家・ソビエト社会主義共和国連邦を形成する「共和国」だったが、東西冷戦後の連邦崩壊により別々の道を歩んでいた。資本主義陣営の「盟主」・アメリカと対立していた歴史をもつため、そのナショナルスポーツである野球とはながらく縁がなかったが、それでも、両国とも野球は行われていた。
オリンピック競技への採用をきっかけとした本格的導入
旧ソ連邦において野球が本格的に競技されるようになったのは、1986年にIOCが野球をオリンピック正式競技に組み入れる方針を示して以降のことである。オリンピックにおけるメダルを資本主義陣営に対する自陣営の優越を示すプロパガンダの道具とみなす共産主義国家において、オリンピック競技となった野球にもようやく力が入れられることになったのだ。
やがて連邦構成国のチームによる連邦大会も行われるようになった。その中、1987年6月に初めて開催されたソビエト国民野球選手権において、ウクライナ代表のキエフ・スパルタクがロシア代表のモスクワ航空学校を破りチャンピオンに輝くなど、ウクライナはソ連邦の野球を牽引する存在となってゆく。
そして首都・キエフが旧ソ連邦の野球の「都」となっていったことは、MLBが1989年にマイナーの2Aイースタンリーグ選抜チームを率いて旧ソ連遠征を行った際、初戦をここで行ったことに表れている。なおこのツアーには、のちにオークランド・アスレチックスのクリンナップを務め、日本ではあのイチローと共にオリックス・ブルーウェーブの黄金期を築くことになる若き日のトロイ・ニールも参加していた。
独立後、MLBのスカウトの射程に
1991年、ウクライナはソ連邦からの離脱・独立を果たすが、翌92年には野球連盟が立ち上がり、独立の3年後の1994年に野球ナショナルチームが初めて結成される。この翌年に、野茂英雄がNPBの近鉄バファローズを退団してMLBで一大ブームを巻き起こし、続く日本人メジャーリーガーのパイオニアとなったように、この時期は、野球のグローバル化が進み、MLBのスカウティング網が地球規模に広がった時期である。上記のマイナーリーグのツアーはその文脈に位置付けられるものであろう。MLBは、ウクライナを「サッカーの大国」・ヨーロッパにおける数少ない「野球選手供給地」のひとつとみなした。この時期に、カリブ海の小国・ドミニカ共和国に各球団がアカデミーを置き、貧困からの脱出を夢見る少年を集めたように、連邦崩壊後の「ウクライナの貧困」は、野球少年を増殖させるのではないかと考えたのだ。
1991年以降、MLBは大学野球のコーチをオフシーズンにウクライナに派遣し、野球普及に努めた。それは、10年後のユース世代のヨーロッパ選手権の自国開催と優勝として花開いた。しかしその内実は、財政難のため、エントリーした6か国のうち、ホスト国ウクライナ以外で実際に参加したのはポーランドのみというもので、これに3戦全勝したウクライナチームも、邦貨にして1万円ほどのビザ代を選手の保護者が支払えず、アメリカで行われる本大会への出場が危ぶまれた。最終的には、指導者たちが金策に走り、なんとかアメリカ行きは果たせたが、野球の本場に現れたウクライナの野球少年たちは強豪ベネズエラとの試合でテニスシューズでプレーし大敗を喫した。貧困は一部の少年たちを野球に誘引したが、野球の素地のないこの国では、その少年たちを育成する環境の整備は多難を極めたのだ。前記のマイナーチームが遠征の際、プロ選手が目にしたものは、外野に芝もないフィールドだったという。
トップチームでさえ、遠征先のイタリアまで丸二日以上かけてトイレのないバスで向かわねばならなかったという決して恵まれない環境の中、それでも1995年には、ヨーロッパ選手権本戦への出場を果たし、以後6度の本戦進出を果たしている。現在のWBSCランキングは29位、これはヨーロッパ勢41カ国中11番目の順位である。
しかしながら、ウクライナからメジャーリーガーもマイナーリーガーもいまだ出現してはいないのが現状である。ただし、日本の独立リーグでは、BCリーグの福井ミラクルエレファンツに2012年にウクライナ生まれ日本育ちで環太平洋大学でプレーした投手、ガラニン・ヤンが入団している。
スポーツを楽しめるのは、平和があってこそである。戦争の決行を決めるのは戦闘にさらされない為政者だが、その前線で戦わされ、命を落とすのは名もなき一般市民である。野球シーンにおいて、 “Ukraine”のユニフォームを再び見ることができる日を、一介の物書きとして願わずにはいられない。