ヘンリー王子が結婚へ 外国人の血を入れてきた英王室の歴史
(「英国ニュースダイジェスト」の筆者コラム「英国メディアを読み解く」に補足しました。)
王位継承順位第5位に当たる「ハリー王子」ことヘンリー王子(33歳)と米国の女優メーガン・マークルさん(36歳)の結婚(5月)が迫ってきました。
メーガンさんが米国籍であること、母親がアフリカ系米国人であることから、王室に「外国人」のかつ「初めて有色人種の血」が入ることを一時、右派系メディアは問題視していましたが、昨年末の婚約会見で2人の幸せそうな姿が報道され、英国全体に「祝結婚」ムードが広がっています。
「時代が変わった」と感想を漏らす人もいました。「離婚歴のある米国人女性」という点でメーガンさんと共通点を持つウォリス夫人は、1930年代に当時皇太子だったエドワード8世と恋に落ちました。国民も政治家も結婚には否定的な見方をし、1936年、国王は王の座を放棄しました。
外国人を受け入れてきた王室
英王室の長い歴史を紐解くと、結婚相手が外国人であることは実は日常茶飯事でした。国王自身が「外国人」であったことが何度も発生しました。ブリテン島にイングランド王国が出来上がるのは10世紀ごろ。その後は欧州大陸からデーン人やノルマン人がやって来て、地元アングロ・サクソン人を支配していきます。12世紀のプランタジネット朝を始めたのはフランスの貴族アンジュー伯アンリ(ヘンリー2世として即位)でした。
少し時代を進めて、18~19世紀のハノーバー朝を見てみましょう。
前王朝のスチュアート朝は、直系の世継ぎを作ることができないまま終わってしまいました。そこでスチュアート朝の血筋を引く、ドイツ北部の領邦君主であるハノーバー選帝侯ゲオルクが君主として迎え入れられます。彼はジョージ1世となりますが、ほとんど英語は理解できませんでした。ハノーバー朝初期の国王はイングランドの政治に関心が薄く、英国よりもドイツのハノーバーにいることを好んだようですが、これを機に国王が不在でも政治が回るように議会制内閣が発展したと言われています。そしてジョージ3世の時代(1760~1820年)になってようやく英国の文化や慣習を理解する国王になったとされています。
18歳で即位したビクトリア女王(在位1837~1901年)はジョージ3世の孫です。現在のエリザベス女王はビクトリア女王の孫の孫であり、英王室はハノーバー朝時代からドイツ系が続いています。ドイツとの繋がりが負の要素になったのは第一次大戦でした。1917年、ジョージ5世は敵国ドイツの領邦名であったザクセン=コーブルク=ゴータをウィンザー家に変えざるを得なくなりました。
外国から国王を招き入れるにとどまらず、英歴代の女王たちを堅固に支える伴侶役を射止めたのも外国人でした。ビクトリア女王の結婚相手は、母ケント公妃の兄、独ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世の次男アルバート。アルバート公は42歳で病死してしまいますが、王室改革に取り組んで無駄を減少させ、科学と教育の可能性を信じ、ロンドン万博(1851年)の成功に大きな貢献をしました。科学博物館、ビクトリア & アルバート博物館などは万博で得た収益で設立されました。
また、エリザベス女王の夫は、ギリシャ王子の血を引くエディンバラ公フィリップ殿下です。生後間もなく同国でクーデターが発生し、フランスや英国で暮らしました。1947年に英国に帰化後、英国王ジョージ6世の長女エリザベス(現エリザベス女王)と結婚。65年以上にもわたり国を治めているエリザベス女王ですが、昨年、結婚70周年を迎えたフィリップ殿下がいつもそばにいたことで、様々な苦労が軽減された面もあるのではないでしょうか。
ところで前出のエドワード8世ですが、ウォリス夫人と結婚後はウィンザー公となり、生涯を英国外で暮らしました。エリザベス女王は途中で王座を投げ出した伯父を一家の恥として受け止めたとされています。とは言え、時代は確かに変わりました。英王室全体がハリー王子のメーガンさんとの婚約と結婚を祝福してくれているのですから。できれば、離婚をせずに最後まで添い遂げてほしいと筆者は願っています。
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エドワード8世がウォリス夫人と結婚をするためには、王位を放棄するしかありませんでした。英国で初めて作成された「退位証書」にまつわるエピソードなどを入れた新刊「英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱」(中公新書ラクレ)をどこかでお手に取って下されば、幸いです。