【京都府向日市】向日市にもいたいっきゅうさんばりにトンチ名人 秀吉もあっぱれ! 乙訓昔話探訪
西国街道は、かつて、豊臣秀吉が朝鮮に出兵する際の軍勢を通すために拡幅して町場に定めました。それが向日町の始まりだと言われています。文禄元年(1592年)、文禄の役の頃、秀吉は全国の諸大名に朝鮮出兵を命じました。伏見城から10数万人の軍団が西国街道を抜けて九州へ向かったと言われています。
京都府向日市歴史・観光サイト(外部リンク)にこの頃のエピソードが紹介されていました。「その時(文禄の役の頃)、乙訓郡島ノ町の街道沿いに住む農民・団兵衛さんに思わぬ幸運が転がり込んだのでした。(軍団の)長い行列が途絶えた昼下がりのこと、高いひづめの音がしたかと思うと、庭先に一人の武士が駆け込んできました。『太閤殿下がのどが渇いたと申しておられる。即刻、お茶を用意せい』」というのです。
「団兵衛さんがあわてて用意したところへ、家来に囲まれた太閤があらわれ、向日神社の方を指さして(秀吉が)たずねました。『つかぬことを聞くが、あの森は何という森か』名前などあろうはずがないのに、村でもトンチの名人で知られた団兵衛さんは、すかさず『はい、あれは勝山の森と申します』」と答えます。
「(秀吉は)勝山と聞いて、『イクサの前に、イキなことを言う男よ。こいつは縁起がいい』太閤は、破顔一笑し、持っていた金の軍配と屋敷1丁、それに自分の出身地である尾張国愛知郡中村の中村という姓を団兵衛さんに与えて去りました。この後、その森を勝山の森と呼ぶようになりました。団兵衛さんの屋敷は明治35年頃まであったそうです。」
いつの時代にも、頭の回転の速い、機転の利く人がいるんですね! 羨ましい限りです。
向日神社勝山公園 向日市向日町北山65−5