楚の勇将・項羽と六波羅探題・北条仲時 『太平記』はなぜ二人を比較したのか
集英社の『週刊少年ジャンプ』に連載されている漫画「逃げ上手の若君」が2024年7月から9月まで、アニメとして放送されていました。「逃げ上手の若君」の主人公は、南北朝時代の武将・北条時行(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の子。幼名は亀寿)です。元弘3年(1333)5月、京都の六波羅探題(鎌倉幕府が京都における政治拠点として設けた出先機関)は、後醍醐天皇方の足利高氏(尊氏)や播磨国の豪族・赤松円心らに攻められて、風前の灯でした。そうした中、六波羅方で持ち上がったのが、関東(鎌倉)への一時撤退です(鎌倉時代末から南北朝の動乱を描いた軍記物『太平記』)。上皇や天皇を奉じて鎌倉に赴き、軍勢を蓄えた上で再び都を奪還せんとしたのです。
六波羅探題の北方は北条仲時でしたが、仲時は騒然とする中、北の方(妻)に心細げに涙を流して次のように告げます。「日頃はたとえ思いの外の事があり、都を去ることがあっても、どこまでも連れて行こうと考えていた。しかし今は敵が東西に満ちて、道々を塞いでいる状態だ。容易く関東まで落ち延びることができるとも思えぬ。しかし、そなたは女性であるので心配はあるまい。松寿(仲時の息子)は未だ幼少であり、たとえ敵に見つかっても誰の子かは分からぬはず。今のうちに夜に紛れてどこへでも忍んで行き、地方にでも身を隠し暫くは世の中の鎮まるのを待て。無事に関東に着いたならばすぐにでも迎えの者を遣わそう。もし我らが道中にて討たれたと聞いたならば、誰とでも結婚して松寿を成人させ、何れは僧侶にして、我が後生を弔って欲しい」と。
ところが北の方は、この時世に幼少の者を連れて知らぬ土地を彷徨えば、誰か落人の縁者だと思われましょうと反論。夫・仲時の鎧の袖を引いたのでした。「心猛し」仲時も無情な岩木ではないので、妻の嘆き悲しむ様を見て立ち去りかねていた。
この逸話の直後に『太平記』に挿入されているのが、楚の武将・項羽とその夫人・虞美人の有名な話です。漢の劉邦の軍勢に包囲され、四面楚歌の状態となった項羽は、虞美人に対し「虞や虞や 若(なんじ)を奈何せん」(虞や虞や、お前をどうしたら良いのか)との詩を作ります。涙を流す項羽。虞美人は悲しみに耐えかねて自らを剣で突き、自害するのでした。『太平記』の作者は、仲時とその北の方を項羽と虞美人になぞらえ、その苦衷を表現したのでしょう。項羽最期の逸話をここで挿入することで、仲時の苦しみ、悲しみが真に迫ってきます。