【富田林市】富田林の板持地区が東西に分かれている理由とは?400年前から続く分断の歴史を探ってみた
富田林市の真ん中を流れる石川の東側。支流の佐備川をはさんだ両側に板持(いたもち)と呼ばれる地域があります。
ここは女優の浪花千栄子(なにわちえこ)さんの出生地。2年ほど前のNHKの朝の連続テレビ小説「おちょやん」で彼女が登場した作品のことは、記憶が新しいところですね。
ところで板持地区は東板持と西板持に分かれていて、浪花千栄子さんは、東板持の生まれです。板持に限らず、ひとつの大きな地区が自治体の管理上の都合により、東西あるいは南北に分かれるようなことはよくある話。
しかし、富田林の板持は、富田林市が管理をするためにふたつに分けたのではありません。調べてみるとそれは非常に古く、400年以上前から分かれていた歴史があることがわかりました。
まず現在の西板持地域を見ましょう。ほとんどが西板持町という表記なのですが、川西大橋の南側のごくわずかなところに「町」のつかない西板持という名前の地名が残っています。
次に東板持地区です。こちらは佐備川から東に広がっている地域で、東板持町とその南側にひょうたんのような形をしている「町」のない東板持があります。東板持地区より東は、富田林の外、南河内郡河南町ですね。
このように地図で表すと一目瞭然です。主に佐備川をはさんで西側が西板持、東側が東板持となっています。まるで冷戦時代の東西ベルリンで、あたかも佐備川がベルリンの壁であるかのよう。
板持地区全体の歴史は古く、古代に渡来人が住み着いたとか。その中には板持氏(または板茂氏)を名乗った豪族・貴族がいました。
歴史上で登場する板持氏として、奈良時代の板持鎌束(いたもちのかまつか)という人がいます。彼は当時中国と朝鮮半島の間にあった渤海(ぼっかい)国の使節団にかかわったとされる人。
また、板持はかつて板茂とも呼ばれていたようで、その名残としてあるのが、現在の西板持地区にある板茂神社でしょうか?
さてこの板持ですが、調べていくと慶長年間以前、ちょうど石川の西側で寺内町が成立したころまでは、ひとつの板持村だったそうです。
ところがこの後、佐備川を隔てて東西に分けられたとか。ではこの慶長年間(1596年~1615年)に何が起こったかを確認すると、そのヒントが見えてきます。
- 1597(慶長2)年 慶長の役(豊臣秀吉による二回目の朝鮮出兵)
- 1598(慶長3)年 豊臣秀吉死去
- 1600(慶長5)年 関ヶ原の戦いで東軍の徳川家康が勝利
- 1603(慶長8)年 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開府
- 1609(慶長14)年 薩摩藩が琉球に侵攻し琉球を支配下に
- 1614(慶長19)年 大坂冬の陣が始まる1615(慶長20)年 大坂夏の陣で大坂城が落城し豊臣氏が滅亡
このように豊臣秀吉が天下を取っていた安土桃山時代から徳川家康が天下を取った江戸時代に変わったのが慶長年間。元々ひとつだった板持が、東西に分裂したのがこの時代の直後であるならば、400年ほど前の江戸時代初期のころに、幕府により村が分けられたことになります。
ところで、ここでもうひとつ複雑な事情があります。それは郡の存在です。現在も郡という行政単位が残っていますが、この郡ができたのは古代701年の大宝律令によるものだとか。
さらに調べると全国の郡の中でも701年から変わっていない郡が全国に一定数残っていることがわかりました。特に京都府や滋賀県の現存する郡は、すべて701年に制定されたもののようです。
ただ大阪府については、府の考えのためか、現存する5つの郡はすべて1896(明治29)年にいくつかの郡をまとめたようです。
富田林市のあたりはかつて石川郡と錦部郡(にしごりぐん)がありましたが、このとき、他の5つの郡と共に、南河内郡というひとつの大きな郡になっています。
さて、その石川郡と錦織郡が、いつから存在したのか、明確な年代とかは調べられませんでしたが、少なくとも相当古くからあったようです。
そしてここで面白いのは江戸時代のころまでは、現在の西板持が錦部郡板持村、東板持が石川郡板持村だったことです。
明治時代まで別々の郡にあった同じ名前の村が、慶長年間まではひとつであったというのは不思議なことですね。
ひとつの村が、別の郡にそれぞれ分かれて存在している理由。個人的に推測してみましたが、ひとつの可能性として次のように考えました。
- 錦部と石川どちらかの郡に元々ひとつの板持村があった。
- 江戸幕府が佐備川を境に、村をふたつに分けた。
- 分けられた方は本来とは違う隣の郡に入れられた。
ここで、大正11年に発行された「井上正雄 著 大阪府全志. 巻之4」という書籍の内容が確認できました。ふたつの板持についての記載があり、一部を引用すると次の通りです。
これを見る限り元々板持は板茂で、旧錦部郡の郷名と読めますね。江戸時代に一部(東板持地域が)が石川郡に移ったのでしょうか?そこまではわかりませんでした。
ちなみに旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)という明治初年の時点での江戸時代の村落の状況を記した台帳によれば、錦部郡板持村(西板持)は旗本領、石川郡板持村(東板持)は、幕府直轄領でした。
さて明治以降の流れですが、1889(明治22)年の町村制施行により、錦部郡板持村(西板持)は錦部郡彼方(おちかた)村にまとめられ、石川郡板持村(東板持)は、石川郡大伴村に統合されます。その後ふたつの郡が統一されて南河内郡となったのは上記で説明した通りです。
この後、現在の富田林市の大半が形成されている富田林町が、1942(昭和17)年に成立する際に、それぞれの板持村の領域(大字板持)を含んだ彼方村と大伴村も合併します。
このときに、ひとつの富田林町の中に、旧大伴村の大字板持と旧彼方(おちかた)村の大字板持というふたつの板持が存在することになりました。
ひとつの町で同じ名前の大字があるのが都合が悪いということで、合併のタイミングでこのふたつの大字の名称が変更。ここでひとつの板持にしたのではなく、彼方村側を西板持と大伴村側を東板持という名前に改称しました。
板持厳島神社から板茂神社に向かう途中、佐備川にかかる厳島橋を渡りました。この小さな川を境に別々の村だった板持地区。
ドイツのベルリンのような国境ではないので、昔も今のように自由には往来できたのかもしれませんが、そんな歴史を頭に浮かべながら小さな橋を渡ると、突然違う場所に来たような不思議な気持ちになりました。