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清須会議を誘導し、柴田勝家を死に追いやった3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 愛知県清須市は市制20周年を記念し、織田信長にちなんだロゴを作成した。こちら。デザインしたのは、鳥山明さんだ。清須市といえば清須会議が有名であり、柴田勝家が死に追いやられた原因になった。会議を主導した3人の武将を取り上げあることにしよう。

 天正10年(1582)6月17日、池田恒興、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉が清須会議を催した。一般的には、本能寺の変で横死した織田信長・信忠父子の後継者を定めるために会議が催されたと思われているが、それは誤りである。

 後継者は三法師(信忠の嫡男)に決定していたので、以後の織田体制をいかにして支えるかを取り決めたのである。次に、3人の武将を取り上げることにしよう。

◎池田恒興(1536~1584)

 池田恒興の母(養徳院)は信長の乳母だったので、そうした関係から恒興は信長から重用された。清須会議後、恒興は摂津方面に約12万石を与えられた。

 恒興は大坂、元助(恒興の子)は伊丹、輝政(恒興の子)は尼崎と、京都に近い場所に知行を与えられたのだから、一族で厚遇されたのは明らかである。天正11年(1583)に岐阜城主だった織田信孝(信長の三男)が秀吉に敗れると、恒興は大垣城、元助は岐阜城の城主になった。

 このように厚遇された恒興だったが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで秀吉の命により出陣したが、徳川家康の軍勢に敗れ戦死した。

◎丹羽長秀(1535~1585)

 丹羽長秀は、信長の若い頃から仕えた側近でもある。本能寺の変の直前には、信孝とともに行動し、四国の長宗我部氏を討つ予定だった。当時、長秀が領していたのは、若狭国と近江国志賀・高島の2郡である。

 天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは秀吉に従い、勝家を討った。戦後、長秀は軍功が評価され、越前国の大部分、加賀国江沼・能美の2郡の合わせて約60万石を与えられた。大出世である。

 このように恒興と同様に厚遇された長秀だったが、天正13年(1585)に病死した。長秀没後の家督は、嫡男の長重が引き継いだのである。

◎羽柴秀吉(1537~1598)

 清須会議後、秀吉は山城国、河内国などを新たに支配することになり、織田信雄・信孝兄弟、恒興、勝家、長秀よりも優位になった。秀吉が政権の主導権を握ったのは明らかである。

 その後、秀吉は敵対した信孝を自害に追いやると、ライバルの勝家も自害に追い込んだのである。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、戦いを有利に進め、信雄と家康を屈服させた。

 その翌年、関白相論(摂関家による関白の地をめぐる争い)に乗じて、秀吉は関白の座に就いた。天正14年(1586)、秀吉は正親町天皇から豊臣姓を下賜され、天下人の道を歩むのである。

◎まとめ

 清須会議が秀吉の天下取りの出発点だったのは事実であるが、それは決して既定路線ではなかった。秀吉は自らの与党を形成し、勝家、家康といったライバルに勝利した。それは楽勝ではなく、大いに苦労があったのはいうまでもない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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