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丸山議員の「奴隷が大統領になるなんて」発言に説明責任を課す病理

森本紀行HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

17日の参議院憲法審査会で、丸山和也参議院議員が「今、アメリカは黒人が大統領になっている。これは奴隷ですよ、はっきり言って」と発言したことについて、菅官房長官は、18日の衆議院予算委員会において、説明責任を果たす必要があるという認識を示しました。さても、このような不適切な発言の釈明についてまで、説明責任という用語が使われるべきなのか。これは、もはや、何にでも説明を求める病理ではないのか。

「奴隷が大統領になるなんて」

18日のNHKニュース(ウェブ版)によれば、丸山和也参議院議員は、17日の参議院憲法審査会で、「今、アメリカは黒人が大統領になっている。これは奴隷ですよ、はっきり言って。まさか、建国当初に黒人、奴隷が大統領になるなんて考えもしなかった」などと発言したそうです。

翌日の衆議院予算委員会において、民主党の神山政策調査会副会長が「アメリカの大統領に対して侮辱とも受け取れる発言だ。外交関係にすら影響しかねない深刻な問題だ」と質したのに対して、菅官房長官は、「政府の立場としては、コメントは控えるべきだ。政治家は、与野党問わず、常にみずからの発言に責任を持って、国民の信頼を得られるよう説明責任は果たしていくべきだ」と回答したのだそうです。

更に、菅官房長官は、「丸山議員は発言の直後に記者会見を行って『誤解を与えるような発言をして大変申し訳なかった』と述べており、議事録を整理したうえで削除および修正したいと発言した。今後ともしっかりと説明責任を果たす必要がある」と述べたとのことです。

丸山議員の真意

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では、丸山議員の発言の真意は、どこにあったのか。17日の朝日新聞のウェブ版に掲載されていた丸山議員の発言の全文をみると、奇怪至極というか、迷妄の極みというか、とにかく全く理解不能なものですから、正しく理解するとか、誤って理解するとか、そのような次元にすらないように思えます。

そこを、善意をもって、合理的に解釈して、要約すると、どうやら、次のような論理の運びで、問題発言が登場したようです。

憲法上、日本国がアメリカ合衆国の州になることは可能なのか。可能であって、実際にそうなっていたら、「集団的自衛権、安保条約」は、全く問題とならない。また、拉致問題も起き得なかったし、財政についても、「行政監視のきかないような、ずたずたの状態」にはなり得なかった。

なぜなら、「アメリカの制度になれば、人口比において下院議員の数が決まる」から、「日本州というのは、最大の下院議員選出数を持つ」し、また、上院についても、「十数人の上院議員もできる」ので、「日本州の出身が米国の大統領になるって可能性が出てくる」からである。

「バカみたいな話」のようだが、「いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ、はっきり言って」。「アメリカの建国、あるいは当初の時代にですね、黒人、奴隷がですね、米国の大統領になるなんてことは考えもしない」。それが実現したほどに、アメリカは、「ダイナミックな変革をしていく国」なのである。このような観点において、日本国がアメリカ合衆国の州となることは可能なのか、聞きたい。

偉大なるアメリカへの賛辞のつもり

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これも、18日のNHKニュース(ウェブ版)によれば、丸山議員は、参議院憲法審査会の幹事懇談会に出席して、「私は決して人種差別主義者ではなく、あくまでアメリカの偉大さを示したかっただけだ。ことば足らずで、誤解を招いたことは残念で、真意が伝わらず、遺憾だ」と釈明したそうです。また、この幹事会では、丸山議員の委員と幹事の辞任が報告されたとのことです。

この丸山議員の釈明は、問題発言がなされた文脈との関係において、誰でも納得できるものです。丸山議員は、間違いなく、アメリカの偉大なる自己変革力を、事例によって、示したかっただけなのです。むしろ、真意は伝わっており、そこに誤解はなかったと思われます。

しかしながら、余りといえば余りにも、稚拙で、不見識で、無教養で、下品な例示の強烈さが突出したことによって、それだけが分離独立した侮辱的発言として、とりあげられて、今回の騒動に至っただけのことです。ただこれだけのことについて、菅官房長官は、説明責任を果たすべきだといっているのですが、一体、何を説明しろというのか、理解に苦しむところです。

敢えて説明するとしたら、愚劣な例示を挙げた理由ということになります。しかし、アメリカの自己変革力を讃えるについては、いくらでも他の優れた例示があるでしょうに、かくも程度の低い例示を用いたことは、丸山議員の無教養と人品の卑しさに起因するのであって、本人の立場からは、合理的な理由を挙げて説明することは不可能です。

丸山議員にできることといえば、「ことば足らずで」あったことについて、釈明することだけですし、現に、本人は、そうしているわけです。このような幼稚な失態が議員としての説明責任の対象とされ、しかも、「外交関係にすら影響しかねない深刻な問題」として、衆議院予算委員会における質疑の対象とされることなど、常軌を逸した事態であり、日本国の陥っている深い迷妄の闇を示すものとして、憂慮せざるを得ません。

日本はアメリカの州になれるのか

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むしろ、丸山議員の発言について、敢えて問題にするなら、日本がアメリカの州になることは可能か、という質問の異常さです。

丸山参議院議員は、参議院憲法審査会の委員として、日本国がアメリカ合衆国の州となることは可能なのか、と問うことについて、どのような意図をもっていたのか、説明責任という用語が用いられるべきなのは、この丸山議員の質問の意図です。

こういう奇怪奇天烈な質問は、愚劣の極みであるか、常識人の考え及ばない深慮に発するか、どちらかであろうと思料されるわけですが、前者の場合は、説明責任の対象ではなくて、釈明(というよりも謝罪)の対象であり、後者の場合のみ、説明責任の対象です。説明責任とは、そういうものです。

カラスなぜ啼くの、カラスの勝手でしょ

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実は、なにごとも説明責任という言葉で片付けること自体に、問題があるのです。これについては、「七つの子」の替歌が参考になります。

「七つの子」という有名な童謡は、野口雨情作詞、本居長世作曲で、1921年に発表されたものだそうです。「烏 なぜ啼くの 烏は山に 可愛い七つの子があるからよ」という歌詞は、かつては(いまでも、そうでしょうか)、広く人口に膾炙したもので、どなたも、七つの意味が分からずに、変だなと思い続けてきたはずです。7歳のカラスは、子じゃなかろうし、7羽の雛を同時に育てるカラスというのも、おかしいし。

まあ、七つは、どうでもいいですが、啼く理由を問われたカラスは、子を思う気持ちをもって、説明責任を果たしたという、いわば、そのような歌であります。これに対して、1980頃に、ザ・ドリフターズの志村けん氏は、「カラス なぜ啼くの カラスの勝手でしょ」という革命的新説をもって応え、一世を風靡したものです。まさに、志村けん氏の明察によって、説明責任は、射程の限界を明確に画されたのです。

丸山議員は、残念ながら、志村けん氏の説明責任に関する新説を知らなかったのか。そこは微妙です。志村説によれば、丸山議員の釈明(というよりも挑戦的宣言)は、「アメリカの自己変革力を讃えるについて、どのような例示を用いようとも、俺の勝手である。真意が伝わらなくても、その結果責任は俺に帰属する。自己責任において、確信をもって、発言することにつき、何か文句あるか」となったはずでありますが、そういえば、袋叩きになること必至の状況において、うまく振舞ったのかもしれません。

結果責任と説明責任

それにしても、志村説は、説明責任と結果責任の関係を、明瞭に、かつ極めて分かりやすく示すものとして、非常に有益です。ギャアギャア啼いてうるさいカラスに対して、子を思う気持ちで説明責任を果たされてしまうと、石をもって追うことはできなくなりますが、勝手でしょという結果責任の全面的引受けで対抗されれば、石をもって追うどころか、急所を直撃することに、何らの躊躇を必要としないわけです。

菅官房長官は、国会議員は、「常にみずからの発言に責任を持って、国民の信頼を得られるよう説明責任は果たしていくべきだ」と述べたわけですが、さて、前段の「発言に責任を持って」と、後段の「説明責任は果たしていくべき」とは、どのような関係にあるのでしょうか。

仮に、前段において、結果責任を含む総合的責任が意味されているとしたら、本件は、もともと説明責任とは関係のない事案だけに、後段は不要でしょうし、逆に、前段の責任も説明責任にすぎないとしたら、菅官房長官の念頭には、結果責任は全くないということなのでしょうか。

発言も含めて、ある行為がなされたとき、その行為者は、常に、結果責任を負うはずです。これは、普遍的な原理です。ところが、行為の結果は、事前には完全に予測し得ないので、その結果責任を行為者に全面的に課すことについては、公正公平ではない事態も想定されます。

そこで、現実の人間社会では、悪意や過失の不存在を代表例に、合理的な理由によって行為の正当性が証明できるときは、その限りにおいて、結果について免責とする制度が広範に導入されているわけです。説明責任は、この行為の合理性や正当性を説明する義務のことであって、行為者は、この義務を果たせないとき、結果責任を負うのです。

決断と革新

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ところが、政治においても、企業経営においても、いや、人間が生きるということ自体において、結果を合理的に予測し得ない状況のなかで、即ち、行為を正当化する合理的根拠がないなかで、行為の意思決定をしなければならないときがあるのです。これが決断です。決断は、合理的根拠を超えます。

企業経営において、経営者の仕事とは何であるかといえば、このような意味での決断にあることはいうまでもありません。経験則から知られる合理性や蓋然性に基づく意思決定は、現場の判断であって、経営上層まで上がることはあり得ないのです。過去からの連続性に基づいては判断できないことについて決断することこそ、経営者の最も重要な役割です。

過去の連続を越えることを革新というのならば、革新こそが経営者の役割といわざるを得ません。革新は、過去の外挿の上にはありませんから、革新は、常に、決断です。このことは、政治においては、もっと明瞭です。一国の指導者の仕事は、国家のあり方を変えること、国家の革新です。革新が問題となるとき、説明責任など果たし得ないことは、説明責任の定義により、自明です。

しかし、ここで、結果責任を論じることに何の意味がありましょうか。国家にしろ、企業にしろ、指導者の冒険に将来を託すことはできないのです。ここでは、説明責任でも結果責任でもない責任、説得責任が問われます。

決断においては、また、革新においては、指導者に対して、支持を表明するのか、不支持を表明するのか、どちらかしかないのです。逆に、指導者の責任として、支持を求める説得をしなくてはなりません。定義により、その説得は、合理的説明を超えて、情熱やロマン性を帯びるでしょう。

菅官房長官は、「国民の信頼を得られるよう説明責任は果たしていくべき」といっていますが、なるほど、信頼は、必ずしも論理性だけに依存するのではなく、非論理的な要素を強く含むでしょうから、これは、本当は、説明責任のことではなくて、説得責任と理解すべきものなのかもしれません。

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長。三井生命(現大樹生命)のファンドマネジャーを経て、1990 年1 月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。 2002 年11 月、HC アセットマネジメントを設立、全世界の投資機会を発掘し、専門家に運用委託するという、新しいタイプの資産運用事業を始める。東京大学文学部哲学科卒。

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