サンフレッチェ広島3連覇を担う背番号22の素顔
中央大学からサンフレッチェ広島に入団し、背番号22をつける皆川佑介選手も185センチの長身で、ポストプレーを持ち味としている。3兄弟全員が、父と共にサッカーボールを蹴りながら成長した。
「2つ歳上の兄がメンバーだった幼稚園のサッカースクールに付いていったのが、第一歩かな」と語るように、幼少期からサッカーに親しんでいる。
小学生時代は学校から帰宅してランドセルを置くと、すぐにボールを持って校庭に駆け出して行くのが日課だった。
「毎日、毎日、サッカーでした。練習というより、ボールと触れ合っていた感じですね。誰よりもボールに触っていた時間が長いという自負はあります。兄の仲間と僕の同級生を混ぜて2チーム作ってゲームという感じでした。年上とやれたのは良かったと思います。楽しくて仕方なかったですね。あの時期にサッカーの感覚が身に付いた気がします。でも当時の夢は、父のような警察官になることで、プロサッカー選手ではなかったんですよ」
中学生になると学校の部活ではなく、クラブチームを選んだ。当時住んでいた所沢市内で強い選手が集まるチームだった。
「うまい人たちとやりたいという欲が出ました。関東大会に出場しています。高校は、絶対に全国高校サッカー選手権大会に出場できるところがよかった。それで選んだのが前橋育英高校です。練習に参加してみて、ここでやってみたいと思いました」
前橋育英高校は部員が200名ちかくおり、1軍から6軍までに分かれていた。
「素晴らしいと感じたのは、山田耕介監督が全チームの練習をきちんと見ることです。僕は6軍でスタートしましたが、いつも監督が見てくれていたので、やりがいがありました」
高校入学後、すぐにトップチームに呼ばれた同級生もいたが、皆川は自分の足りないところは何であるかを常に意識しながら練習に取り組んだ。
「僕がFWになったのは、前橋育英時代なんです。それまではDFもMFもキーパー以外はどこでもやりました。MFの前が多かったのですが、山田監督にFWと言われて、自分の特徴に気付きました」
2年生からレギュラーとなり、全国高校サッカー選手権大会ベスト4、3年生ではインターハイ優勝を飾る。
「でも、最後の選手権は1回戦負けでした。夏のインターハイで勝って、油断したのかもしれません。その頃もプロになりたいという思いはなく、高校でここまでやったのだから、呼んでくれる大学があったらやろう、という気持ちでした。でも、どこが強いとか、名門だとかの情報はありませんでした」
中央大学を選んだのは、前橋育英高時代の1つ先輩で現清水エスパルスの六平光成の存在があったからだ。
「また一緒にやりたいな、と思って入ったら、後にプロになるレベルの先輩たちが沢山いて、見本になるような選手と切磋琢磨することで成長できました。自分の武器となるのは、キープ力であり、周囲を活かすポストプレーだと分かりましたね。1年生の頃から試合にからんではいましたが、レギュラーに定着できない時期は、僕には何が必要なのかをひたすら考え、課題を見つけて取り組んできました」
大学3年次に左膝前十字靭帯断裂、半月板損傷という怪我に見舞われ、半年を棒に振る。その折にも、国立科学スポーツセンターに3カ月に泊まり込んで、専門家のアドバイスを聞きながらリハビリをこなした。
「人は人ですが、僕が怪我をしている間に学生選抜のチームメイトたちはプロのキャンプに呼ばれていましたから、焦る思いもありました」
怪我から復帰した皆川はユニバーシアード代表選手として日の丸を背負う。そして、夏の総理大臣杯の期間中にサンフレッチェ広島からスカウトを受けた。
「今の広島にはないプレースタイルだ。攻撃にアクセントをつけてほしい」と口説かれた。そのサンフレッチェはご存知のようにJリーグ2連覇を遂げている。
「これまでの経験で、努力は実になるということを理解していますから、サンフレッチェでも武器を伸ばし、足りないところを見つけてやっていきます。1年目から試合に多く絡んで、3連覇に少しでも多く貢献したいですね。もちろん、代表に入りたいですし、ビッグなプレイヤーになりたいです」
言葉を選びながら、冷静にインタビューに応じる皆川からは、実直さを感じた。
そんな皆川は障害児たちを前にしても、常に気持ちを察しながら、子供たちが喜ぶようにプレーした。中には言葉を発することができない子もいたが、皆川はボールを使って彼らと対話し続けた。
会場にいたすべての人が、白須真介監督、皆川、ダニエル、そして中央大学の選手たちから人間のぬくもりを感じていた。