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「批判的人種理論潰し」は、「第2のティーパーティー運動」になるのか

前嶋和弘上智大学総合グローバル学部教授
「批判的人種理論が浸透している」というルフォ(右)とカールソン(FOXNEWS)

 アメリカではいま、「批判的人種理論」という聞きなれない言葉が大きな論争を呼んでいる。「差別は社会構造の問題」とするこの理論に対して、保守派が総攻撃を続けており、理論を支持した教育委員会委員の罷免運動が起こるほか、理論に基づいて教員が教えないように監視カメラをつけることを呼びかける、驚いてしまうような動きもある。この理論を潰そうと、勢いづいた保守派が来年の中間選挙でこの理論潰しを大きな争点にし、選挙結果を左右するかもしない。

「批判的人種理論」とは

 「批判的人種理論(critical race theory, CRT)」は固そうな名称の通り、そもそもは人種と法の関連を批判的に検証する学術的なアプローチである。1970年代半ばに黒人の弁護士で大学教授だったデリック・ベルらが唱えたとされている。現在、主な研究者として常に名前が挙がるのが、キンバリー・ウィリアムズ・クレンショー(黒人)、リチャード・デルガド(メキシコ系)、マツダ・マリ(日系)、パトリシア・ウィリアムズ(黒人)らの法学者であり、このアプローチに基づく論文や書籍を多数著してきた。

 それぞれの指摘は細かくは異なるが、共通するのは、人種差別は差別的な考え方を持つ個人の「心の問題」以上に、「社会そのものにある」という点である。長年の公民権運動やその後の諸改革にもかかわらず、人種的な差別や格差が根強く残っているのは、制度や構造が生み出しているという見方である。

 この理論を通じ、より多様な社会を目指す上でこれまで見過ごされてきたことを再検討し、人種的な差別を是正するヒントを探す手助けになるなら、素晴らしいことだ。多様性の実現はアメリカだけなく世界が目指すところでもある。「差別は社会構造の問題」という学術的なものの見方に過ぎないため、保守派が目くじらを立てるのが何かは分かりにくい。

皮膚感覚的な対立

 ただ、アメリカではリベラル派と保守派の分極化の中、「人種」と言っただけでも論争を呼ぶ。「アメリカが長年築いてきた社会や諸制度が悪い構造的な問題」ということは、その歴史を作ってきたのは主に白人であるため、白人に対する非難になってしまう。

 上の文章を「白人社会や白人が作り出したアメリカ社会や諸制度が悪い構造的な問題」と書き替えると一気に人種対立の火種になることが想像できよう。多様性の包摂を進めることに対する賛否が「文化戦争」といわれる激しい左右の対立に行きついてしまうのがアメリカの現状だ。

小中高への波及

 批判的人種理論に対する反発が大きくなったのは、研究のアプローチだけにとどまらず、その理論に基づいた教育が公立の小中高に広がっていったこともある。特に、「1619プロジェクト」などを通じて、小中高校での授業内容にその見方が盛り込まれていった。

 「1619プロジェクト」はこれまでのアメリカの歴史を奴隷制という観点から根本的に再検討加えることを目指すニューヨーク・タイムズの特集企画だ。そもそもは2019年の8月の特別号の企画だったが、その後もオンライン上で様々な寄稿者によるエッセイ、写真、動画が蓄積されている 。諸説あるものの、英国の植民地であるバージニアに黒人奴隷20人強が初めてイギリス支配下の北アメリカに上陸したのは1619年とされている。この名称そのものが示唆的である。

 「1619プロジェクト」は一読していただくとすぐわかるように、実際に学校教育を意識しており、全米の小・中学校の歴史の授業で利用されることを想定した双方向的なコンテンツとなっている。まさに社会構造や制度が差別を生み出している「批判的人種理論」にほぼ基づいたプロジェクトだ。

 分別のある年齢である大学生だけではなく、小中高にこの理論に基づいた教育が広がることは、「文化戦争」の火に油を注ぐことになる。その対立も極めて皮膚感覚的だ。人種的に多様なニューヨークやサンフランシスコ、ロサンゼルスなどの都市なら、隣人との共生のための有益なヒントとして批判的人種理論は広く受け入れられていく。その一方で、白人が数的に圧倒的に多い南部や中西部の多くの州の人々は「自分たちがいつの間にか悪者になっている」「白人差別だ」と感じてしまう。保守派のフロリダ州のデサンティス知事の言葉を借りれば「国家公認の白人に対する人種差別」「子供たちに読み方を教えるよりも、お互いを憎むことを教えたがっている」ということになる。

保守派からの総攻撃

 トランプ前大統領は昨年9月22日、批判的人種理論を「国家を分裂させるもの」とし、連邦政府機関内での「アメリカ社会構造が人種差別的である」ことを示唆するトレーニングを禁止する大統領令を出した。バイデン氏が大統領に就任後、この大統領令を取りやめているが、既に全米に「批判的人種理論」批判が飛び火している。

 上述のフロリダ州を含む共和党が多数派を占める南部や中西部などの州議会は、公立学校での「批判的人種理論」に基づく教育の禁止をこの1,2年の間に導入している。50州のおよそ半数の州で「批判的人種理論」や「人種的正義」を教えることに規制を設けている。

 各州では「批判的人種理論」を支持した教育委員会の委員の罷免運動が起こっているほか、ネバダ州などの一部では、「批判的人種理論」に基づいた話を小中高校での教員がしないように監視カメラを付ける案すら提案されている。保守的な議員らは「左翼の活動家によるプロパガンダ」とみなし、非難を続けている。

 ただ、現場の教師の立場に立ってみれば、そもそも奴隷制はアメリカの社会制度そのものだったという事実を否定して教えることはできない。南北戦争を教えるために奴隷制の説明は必要である。建国当初は各州選出の下院議員数の割り当てを決める際に、「非自由人」(奴隷)5人を3人として数えたため、黒人1人は「5分の3人」でしかなかったのは事実である(もちろん、現在は廃止されている)。その事実を曲げることはできないが、「白人特権」といった観点やそれを「白人差別」的に教えることは避ける、ということになる。

なぜ今なのか

 それにしても研究者が40年間にわたって研究してきたのに、「批判的人種理論」への批判がなぜ今起こっているのか。理論に基づいている1619プロジェクトが注目を集めたこともあるかもしれないが、批判的人種理論の研究者が進めたというよりも、ニューヨーク・タイムズの記者たちで立ち上げられた特集であり、そもそも直接の関係はないはずだ。ブラック・ライブズ・マター運動がピークだった昨年の夏でさえ、多くのアメリカ人は「批判的人種理論」という言葉を聞いたことがなかったはずである。

 直接のきっかけとみられているのが、昨年9月2日、保守層が最も好んで視聴するタッカー・カールソンが司会のフォックス・ニュースの番組(Tucker Carlson Tonight)であるとされている。

 保守派のドキュメンタリー作家のクリストファー・F・ルフォが、この番組で「政府職員に多様性トレーニングが強要されている」として、その中の「批判的人種理論は連邦政府に浸透している」と批判し、一躍有名になった。トランプ氏もこの番組から「批判的人種理論」を知ることになったとされており、上述の大統領令につながる。

 この番組出演で一晩にしてルフォ氏は「批判的人種理論潰し」の保守派のシンボル的な存在となった。その後、理論に対する保守派の猛反発につながり、今に至る。リベラル派にとっては「作り上げられた政治争点」となる。

第2のティーパーティー運動になるのか

 フォックス・ニュースの番組での突如として争点化され、保守が総攻撃をしていくという動きは2009年から突如として起こったティーパーティー運動にそっくりである。ティーパーティー運動は「増税に反対する運動」という名目だったが、実際はオバマ政権批判の運動だった。オバマケアというむしろ白人の低所得者層にはメリットがある政策に対して、徹底的に否定した。当時は既にフォックス・ニュースを去ったベックやオライリーらの番組で連日取り上げられることで、運動が大きくなっていった。草の根運動と言われたが、実際はその背後には「フリーダムワークス」などの既存の保守の政治団体の影響も大きかった。

 ティーパーティー運動は2010年の中間選挙での共和党の躍進を支え、下院の多数派を共和党が奪還することにつながっている。その後、2016年の大統領選挙ではトランプ氏を熱狂的に支持する運動に変わっていった。

 現在、連邦議会は上院は50対50、下院での民主党のリードもわずか8議席差しかない超僅差が続いている。少しの変化が大きな政治的影響を生む。「批判的人種理論潰し」が共和党の議会での多数派奪還の原動力になる可能性も指摘されている。

 かつてのティーパーティー運動のように、来年の中間選挙で保守派の躍進の象徴になるのか、「批判的人種理論潰し」に大きな注目が集まっている。

上智大学総合グローバル学部教授

専門はアメリカ現代政治外交。上智大学外国語学部英語学科卒、ジョージタウン大学大学院政治修士課程修了(MA)、メリーランド大学大学院政治学博士課程修了(Ph.D.)。主要著作は『アメリカ政治とメディア:政治のインフラから政治の主役になるマスメディア』(北樹出版,2011年)、『キャンセルカルチャー:アメリカ、貶めあう社会』(小学館、2022年)、『アメリカ政治』(共著、有斐閣、2023年)、『危機のアメリカ「選挙デモクラシー」』(共編著,東信堂,2020年)、『現代アメリカ政治とメディア』(共編著,東洋経済新報社,2019年)等。

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