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オウム死刑囚執行のニュースに長いつきあいの松本家の家族たちのことを考えた

篠田博之月刊『創』編集長
大きく報道された死刑執行のニュース(撮影筆者)

 7月6日、松本智津夫オウム元教祖を含む7人の死刑が執行されたというニュースには、近々あると予想してはいたものの、実際にそうなってしまうとやはりある種の衝撃を受けた。私も1996年にオウムの拠点だった上九一色村から信者たちが撤退する日には現場に行っていたし、まだ13歳のあどけない少女だった三女に単独インタビューして以来、松本家の家族とはいろいろな局面で接してきた。だから今回の執行には私なりにいろいろな思いが込みあげてきた。

1996年10月末、解体された上九一色村(撮影筆者)
1996年10月末、解体された上九一色村(撮影筆者)

 父親の遺体の引き取りについては、母親と二女、三女らが家族として葬儀を執り行いたいからと申し入れをし、家族と決別している四女はそれと別に当局と交渉、しかし拘置所側は今のところ保留しているらしい。元教祖の遺体は、アレフの信者にとっては特別の意味を持つし、そうした意味合いを考えて拘置所側もどうすべきか思案しているのだろう。そこにもオウム事件が持っていた社会的意味の大きさが反映されている。

 ふと2008年に12年間つきあった埼玉幼女連続殺害事件の宮崎勤死刑囚が執行された時のことを思い出した。あの時も私にとっては衝撃だった。執行された翌々日に宮崎元死刑囚の母親が「長い間、息子がお世話になりました」とわざわざ電話をかけてきたのを覚えている。

 その時、線香をあげさせてもらえませんか、と頼むと、母親は「拘置所にお任せしましたから」と言った。遺体引き取りをしなかったという意味だ。たぶん遺体を引き取っても、葬儀もできる状況ではなかったろう。その意味では今回、家族が遺体引き取りを希望しているというから、そのことについては松本元死刑囚は恵まれているといえるかもしれない。

 私は三女とは20年以上、旭村連れ去り事件や和光大入学拒否の時など、いろいろな局面で接してきた。今年も何度も会っていたし、月刊『創』7月号には父親の死刑の問題について手記を書いてもらっている。

 彼女の自宅にはたくさんの報道陣が押し掛けたらしいが、その『創』の手記を読むと、彼女が今どういう心境にあるか想像できるし、その心情を斟酌してやってほしいと思う。ここに手記の一部を引用しておこう。これは今回の執行でなく、3月に幹部らが移送されたという報に接してショックを受けた時の心情だが、当初、刑が執行されたかと思いこんでしまったほど、彼女がナーバスになっていたことがわかる。

 この一文をネットにあげようと思ったのは、ショックを受けているだろう彼女のツイッターにとんでもない誹謗中傷の投稿がなされているというニュースを見たからだ。和光大入学拒否事件の時も思ったが、子どもは親を選んで生まれてくるわけでない。父親が犯罪者だという理由で娘を中傷したり、嫌がらせするというのは、本当に恥ずべきことだ。それは日本社会がまだその程度かということを示すものなのだが、さきほど彼女のツイッターを見てみたら、彼女への中傷をいさめる投稿も結構なされていて、ホッとした。

三女の松本麗華さんが『創』7月号に書いた手記
三女の松本麗華さんが『創』7月号に書いた手記

 彼女がこの3月からどんな思いに追い込まれていたか、『創』の手記のごく一部を引用する。

《わたしが移送の事実を知ったのは、お付き合いのあるマスコミ関係者の方から、

「既に連絡が殺到していると思いますが、分散移送について……」

 と、LINEにメッセージをいただいたのが最初です。メッセージに気づいたのは午前11時半ごろ。前日は明け方近くまで原稿を書いていたため、その時間まで寝ていたのです。最初はどういうことなのか理解ができず、「既に連絡が殺到」という言葉から、わたしは父たちの死刑が執行され、父はもう生きていないのではないかと勘違いしました。恐怖が背筋を這い上り、手が震え始めたことを覚えています。》

《父や12人の友人・知人が逮捕されて23年。わたしは既に父たちと過ごした時間の2倍近い人生を歩んでいます。父に対する想いや、幼いころにお世話をしてくれた人たちへの思いは弱まっているだろうと思っていました。しかし、冷静さを失い、なかなか電話をかけることもできない自分に気づいたとき、変わらずに父たちが大切な人だということに気づいたのです。》

 この後、彼女は、弁護士と話をした後で《電話を終えたあと、わたしは誰もいない脱衣所にうずくまってしまいました。泣いている姿を同居人に見せたくなかったし、動けなかったからです》と書いている。

 そして6日午後、その三女の妹、四女のメッセージが滝本太郎弁護士のブログに公表された。私は四女とも、彼女が小学生だった頃からのつき合いで、一時は時々会って食事したりする関係だった。その四女のメッセージも胸を打つものだった。

《私の実父松本智津夫が多大な迷惑をおかけした被害者の方、ご遺族の方、信者のご家族、元信者の方、刑務官の方、そして世間の皆さまに改めて深くお詫び申し上げます。死刑が執行されたことにより被害者の方、ご遺族の方が少しでも心安らかな日々を取り戻せることを心より祈っております。

 松本死刑囚は一度の死刑では足りないほどの罪を重ねましたが、彼を知る人間の一人として今はその死を悼みたいと思います。執行はされるべきものでしたが、ただひとつとても残念に思うのはかつての弟子であった元幹部まで6人も執行されたことです。宗教的な理由においても、責任の重さにおいても、今日の執行は教祖一人でないといけなかったと思います。洗脳されて事件に関与してしまった元幹部の執行の是非はもっと議論され熟慮のうえでないと社会に課題を残してしまうのではないかと心配です。

 まだ信仰を続けている信者には、これ以上松本死刑囚の罪を増やさないようにどうか後追いなどしないで、早く夢から覚めてほしいと願っています。》

 四女はオウム事件当時はまだ小さくて状況が把握できず、物心ついてから自分の父親がどんな事件を起こしていたかを知るところとなり、深く傷ついた。そして被害者に対して自分も娘として申し訳ないという気持ちに駆られ、松本家を飛び出し、父親の責任を追及することを続けてきた。犯した罪は否定しながらも、父親に対して肉親としての情を保っていた三女とは、それゆえ激しく対立したのだった。

 私はかつて二人ともつきあっていたし、ぜひ姉妹が和解してほしいと思ってきたのだが、それは簡単ではなく、四女とつきあって手記などを書いてもらっていた時期は三女と疎遠になり、三女がカミングアウトしてからは三女とのつきあいが深くなったために、四女と疎遠になることになってしまった。

 かつて四女がまだ小さかった頃、竜ケ崎の松本家を訪ねた時、私が帰る時に玄関でお辞儀をして見送ってくれ礼儀正しい四女の姿は記憶に焼き付いている。その後、彼女が父親の罪に悩み、何度も自殺を図った頃には、彼女を励まそうという気持ちもあって、何度も会っていた。今回のメッセージもしっかりした内容で、彼女が自分自身の気持ちを整理できていることを知ってほっとした。

 前述したように1996年にオウム教団は拠点の上九一色村を追放されるのだが、市民社会に戻ろうとして各地で住民と対立する。その対立の現場を『創』は追い続けたから、当時は各地に足を運んだ。だからオウム事件や松本家とのつきあいはかなりの年月になる。二女と三女が弟の旭村連れ去り事件で大騒動になった時には、東京拘置所にいた母親の知子さんと何度も面会して、当時の報道が間違っていることを訴えた。月刊誌では間に合わないからと「週刊朝日」に持ち込んで、そこで記事にしたものだ。その記事は、逃亡中の二女と三女も読んでくれていた。

 今回の死刑執行のニュースに、まず思ったのは、家族たちはどんな思いでいるのかということだった。

 今回の執行は、事件としてはひとつの区切りを意味するのだろうが、多くの問題が残されたままだ。平成の始まりに起きた埼玉連続幼女殺害事件の宮崎勤元死刑囚とも12年間つきあったが、平成最大の事件と言われるオウム事件もいろいろな形で取材を行ってきた。平成最後の年に、国家がこの事件を清算しようと考えたのも、事件の持つ意味の大きさゆえだったと思う。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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