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日本最高齢フィギュアスケーター浅野千江子さん、92歳でマスターズ出場、満州から仙台へ繋いだスケート愛

野口美恵スポーツライター
2月に93歳になる浅野さん、アイスリンク仙台で滑り続けている (c)bassy

仙台にはスケートの女神がいるのだろう。荒川静香、羽生結弦の2人の五輪金メダリストを輩出したアイスリンク仙台では今、92歳のスケーター浅野千江子さんが、伸びやかな滑りを見せている。昨年6月には、第28回マスターズチャレンジカップで「大会最高齢出場賞」を受賞した。

「ずっと続けていることで、病気もしない。スケートのおかげですよね。最近は、鏡を見る背中が丸くなっていて『歳だなあ』なんて感じることはありますよ。でもスケートは脚だから。脚が滑れていれば大丈夫。バックスケーティングも怖くないですよ」

週2回、火曜と金曜がレッスンの日。レッスンの前日にはキッシュやパン、焼き菓子など、手の凝った料理を作り、スケート仲間に振る舞うのも楽しみの一つだ。バスと電車を乗り継ぎ、1時間半。リンクに到着する千江子さんの足取りは軽い。慣れた手付きで靴紐を締めると、軽やかに氷に降り立ち、何の力も入れずにスーッと自然に滑り出した。

「子供の頃、満州では、スピードスケートで追いかけっこしていましたからね。『もう92歳なんだから、浅野さん、そんなにスピード出さないで』って言われるくらい。ふふふ」

少女のような顔でクスッと笑う。「満州」という言葉の持つ重い響きを、屈託ない笑顔が包み込んでしまう。

スケート歴82年。そのスケート人生を追った。

満州で出会ったスケート「転ばずに滑れて、そこからやみつき」

1930年2月6日、仙台市に生まれた。日本陸軍に勤めていた父が満州に赴任し、1942年、千江子さんが小学校4年(10歳)のときに、家族も満州に呼ばれた。

「小学校の先生からは『なんで満州なんか行っちゃうの』と泣かれましたね」

未知の領土で開拓団が苦労する印象が強かったのだろう。しかし父が満州国陸軍軍官学校の教員となった千江子さん一家の待遇は良く、中国人のお手伝いさんを何人も抱えるような暮らし向きだったという。そして迎えた初めての冬、スケートに出会った。

「満州では、ちょっと小寒くなるとみんなスケートを始めるんです。最初の冬は『え?スケート?』っていう感じで。私はスケート靴を持っていなかったので友達の靴を黙って借りて、滑ってみたの。そしたら転ばずにスーッって滑れて。もう、そこからスケートはやみつきでしたね」

広大な校庭は、水をまいただけで翌朝には天然のリンクに変わる。体育の授業はもっぱらスピードスケート。東京ドームのような広い校庭の端まで連れていかれて、自力で校舎まで戻る。友達と競争するうち、自然とスピードも身についた。

「体育の授業は、ロングのスピードスケート靴を履いて、スピード競争でした。新京錦ケ丘女学校(現在の中学校)に入ってからは、白いフィギュアスケート靴を買ってもらって。毎日滑っていましたよ。コンパルソリーの練習が多かったですね。フィギュアスケートなので、円を描く練習です」

屋外リンクで優雅にフィギュアスケートをする姿は、満州開拓の成功の象徴でもあった。

満州でスケートをする子どもたち、復刻版『満州グラフ』ゆまに書房より
満州でスケートをする子どもたち、復刻版『満州グラフ』ゆまに書房より

日本の敗戦で満州引き上げ、千江子さんが肌身離さず持ち帰ったもの

しかし厳しい冬の寒さと、疫病、そして食糧事情の悪化で、暮らしぶりは変わっていった。

「母は妹を産んですぐに亡くなって。兄弟は10人、いや1ダースくらいいたかしら。でも次々と死んで、あっという間に半分くらいになってしまって。私は身体が丈夫だったから生き残りましたけど。今思うと、笑ってる時ってあったのかな、って」

1945年8月15日、日本は敗戦。満州の情勢は一気に変わった。

「敗戦ですべてが変わりました。毛沢東の共産党軍や、ソ連(ロシア)軍が入ってきて、時計から電球、電気の傘まで、何から何まで全部持って行かれました。その頃はまだ父が生きていましたから、守ってくれましたが、皆が怖い思いをして。今のウクライナのニュースを見ていると、ロシアが同じことをやっていますよね」

日本人の引き上げが始まったのは、1946年5月。その間に、父も疫病に倒れた。

「とにかく引き上げ船を待ちました。待っている間に父も妹も亡くなり、苦労して苦労して…。やっと船に乗れたのは、1年後の昭和21年(1946年)9月でしたね。葫芦島(ころとう)へと集められ、博多港まで。大きなアメリカの貨物船が港にやってきて、何が何でも故郷に帰る、という感じでした。お金は一人1000円しか持って帰ってはダメと言われて、皆で(着物の襟裏など)細かいところにお金を隠して入れてね、あとは衣服を詰め込んだリュック、荷物はそれだけ」

父母や兄弟の遺髪を詰めた1つの瓶が、日本へ持ち帰れる唯一の形見。まさに着の身着のまま、という引き上げ。しかし千江子さんは驚く行動に出た。

「父に買ってもらった白いフィギュアスケートの靴を置いていくのが忍びなくてね。スケート靴の刃を外して、靴の部分だけにして、それを靴の代わりに履いて引き上げたんですよ。恥ずかしかったですけれど」

この混乱の時期に、千江子さんは父の教え子だった青年、浅野次男(あさの・つぐお)さんと満州で知り合い、婚約。不安定な日々のなか、千江子さんの心の支えとなった。

「入籍したのは(引き上げ後)、私が17歳、夫が21歳のとき。早くに結婚したおかげで、色々と世話をしてくれましたね。主人はあまり自分のことを話さない、働き者の真面目な人でした」

引き上げ後は仙台市のバラックに身を寄せ、19歳で一人娘を出産。親族や友人の協力を得ながら、スケートだけは続けた。

68歳 マスターズチャレンジカップ初出場(1998年)(C)浅野千江子
68歳 マスターズチャレンジカップ初出場(1998年)(C)浅野千江子

五色沼でスケートを再開、50歳からは佐藤信夫、都築章一郎にも師事

当時、仙台でスケートと言えば、五色沼だった。明治時代に仙台市在住の外国人によってスケートが伝えられた「日本のフィギュアスケート発祥の地」とされる池だ。千江子さんはそこで、優雅なアイスダンスと出会った。

「今でこそ五色沼は凍りませんけれど、昔は1、2月の間は凍っていたんですよ。東北大のアイスホッケー部の生徒さんが『こっから向こうは氷が溶けてるから危ないぞ』とか教えてくれてね。コンパルソリーやアイスダンスをしましたよ。引き上げの時に履いてきたスケート靴は1〜2年履いて、その後は、主人が新しいスケート靴を買ってくれました。スケートだけは縁が切れなくて、とにかく好きなことなので、どこまででも滑りに行きましたね」

夫の仕事で上京してからは、さらにスケートにのめりこんだ。

「50歳のとき、スケート教室の宣伝が新聞に載っていたんですよ。佐藤信夫先生と都築章一郎先生のスケート教室が、国立・代々木体育館であるって。でも申込み用紙に50歳と書くのがどうにも恥ずかしくてね、48歳と書きました。2歳サバを読んだんですよ(笑)」

日本を代表するコーチ佐藤、都築の指導を受け、40年間自己流だったスケートを、劇的にスキルアップさせていく千江子さん。週4回のレッスンを受け、1回転ジャンプやスピンも身につけてバッジテストは2級に合格した。そして1998年、68歳の時に、マスターズチャレンジカップで試合デビュー。娘が選んだジャズナンバーで、初めてのプログラムを振り付けた。

「すごく素敵なアメリカの曲でしたね。もう名前も覚えてないけれど。娘も孫も、よく応援に来てくれました」

その後、夫が癌を患い、闘病生活のために仙台へ帰郷。その頃、仙台市で開発が進んでいたニュータウンの「錦が丘」に一軒家を構えた。それは満州で住んでいた「新京錦ケ丘」と同じ名。夫はそこを終焉の地に選んだ。

「仙台に戻ってからは、いまのアイスリンク仙台で練習を始めました。当時は、佐野稔先生もいらして、子供の頃の羽生結弦さんも滑っていましたね。主人はスケートには理解があって、一度も『いい加減スケートやめろ』なんて言ったことがないの。入院していた時も『お前はスケートやってればいいんだから、スケート行ってこい』って。それで私、スケートに通ってたんですよ(笑)」

週2回、アイスリンク仙台での練習を楽しみにしている  (c)bassy
週2回、アイスリンク仙台での練習を楽しみにしている  (c)bassy

2月には93歳、「朝起きてね『ああ今日もスケート行けるな』って思うんです」

千江子さんが73歳のとき、夫を自宅で看取った。それから19年、独り暮らしを続け、スケートに通い続けている。マスターズチャレンジカップには、24年間で通算15回出場。2022年6月に、92歳で大会最高齢賞を受賞した。

「まだまだ足は大丈夫。『92歳にもなってスケート?まだやってるの?』って言われますけど、今更、他に何かを始めると言ってもねえ。水泳やカラオケってわけにもいかないですよね。やっぱりスケートよね」

満州で初めて滑った10歳から、はや82年。継続できた理由をこう語る。

「朝起きてね『ああ今日もスケート行けるな』って思うんです。食べるものちゃんと食べて、あとは、バスと地下鉄に乗ってリンクに来れば、そこに氷があるから。そして(浪岡)愛先生がいる。レッスンが終わったらすぐ帰ります。ダラダラしないのも長続きの秘訣。午後は子どもたちが来るから、そういう子にぶつかったら、転ばせちゃうでしょ(笑)。1日1時間、週2回。無理はしないの」

今年2月には93歳を迎える。千江子さんの夢は、1日でも長くスケートを続けること。

「色々なことを乗り越えて帰国して、私、スケートで生き延びてるんですよね。健康で、どこも悪くなくて、スケートのおかげ。リンクがあって、そこに来て、自分の足で滑れるということが一番。それを続けているというのは我ながら、よくやるなと。とにかく辞めようと思ったことがないの、スケートだけは。そうですね。やっぱりスケートですね」。

スケートを愛し、スケートの女神に愛され、千江子さんの氷上人生は続いていく。

スケート歴82年、まだまだ「足は大丈夫」という浅野さん (c)bassy
スケート歴82年、まだまだ「足は大丈夫」という浅野さん (c)bassy

スポーツライター

元毎日新聞記者。自身のフィギュアスケート経験を生かし、ルールや技術、選手心理に詳しい記事を執筆している。日本オリンピック委員会広報としてバンクーバーオリンピックに帯同。ソチ、平昌オリンピックを取材した。主な著書に『羽生結弦 王者のメソッド』『チームブライアン』シリーズ、『伊藤みどりトリプルアクセルの先へ』など。自身はアダルトスケーターとして樋口豊氏に師事。11年国際アダルト競技会ブロンズⅠ部門優勝、20年冬季マスターゲームズ・シルバー部門11位。

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