オーナーはビアソムリエ世界チャンピオン! アウグスブルク最古のビール醸造所を訪ねて
年の瀬に向けて、忘年会、クリスマスパーティなどでお酒を飲む機会が増えます。温かい部屋で仲間と飲む冷えたビールの味は格別です。
ドイツでは美味しく品質のよいビールを作るために原料を「大麦、ホップ、水、酵母」に限定した「ビール純粋令」が1516年に制定されて、今もこの法がビール作りに受け継がれています。
ドイツには1352のビール醸造所があり(2014年独統計局調べ)、その3分の2がバイエルン地方に集中しています。なかでもアウグスブルクは、国内でビールの品質保持にいち早く着手したといわれます(その背景は後ほど紹介します)。
早速、アウグスブルク最古の醸造所を訪ねました。
5世代続く、市内最古の「リーゲレビール醸造所」
アウグスブルクはミュンヘンに続くバイエルン州第二規模の都市で、ミュンヘンから特急列車ICEで30分ほどの至近距離にあります。ミュンヘンが、あまりにもビールの街として有名なため、アウグスブルクのビールは日本ではあまり知られていないようですが、現在大きな醸造所は4つあります。
今回訪問したリーゲレビール醸造所(以下リーゲレ)は、1386年創立の市内で最大規模かつ最古の醸造所。同醸造所の年間ビール生産量は20万ヘクトリットル。ここでは、ピルスナー、黒など13品種の定番ビール、フルーティ、マイルドなどホップの繊細な香りを生かした8種のスペシャルビール、さらにミネラルウォーターやソフトドリンクなどを手がけています。
ビールの美味しい味の決め手となる水は、ビール成分の9割を占めます。それだけに水は、ビール作りに大きな影響をもたらします。工場内に自社井戸を有するリーゲレは、地下217メートルからくみ上げる水の品質管理に最善を尽くしているそうです。
リーゲレを有名にした飲料は、1956年から製造されているコーラとオレンジジュースをミックスしたシュぺツィ。コーラよりスッキリした炭酸飲料で、シュぺツィといえばリーゲレといわれるほどのソフトドリンクです。今は、リーゲレを含む13の醸造所にシュぺツィの製造権があリ、30種類のシュぺツィが市場に出回っています。
歴史ある醸造所がビールでなく、ソフトドリンクで有名になった?と思われるかもしれませんが、もともとリーゲレのシュぺツィはビールの銘柄だっだそう。リーゲレのトレードマークともなったシュぺツィを考案したのは3代目のセバスチャン・リーゲレ(シニア)。
その孫、醸造所5代目現オーナーのセバスチャン・プリラー・リーゲレ氏はビアソムリエ世界チャンピオンの肩書きを持つイケメン。
同氏は2009年に開催されたビアソムリエ初回世界大会に参加して2位となり、2011年にはめでたくチャンピオンの栄冠を得ました。ビアソムリエ大会は2年ごとに開催されており、20種のビール試飲試験を始め、筆記試験やプレゼンテーションも審査されます。
現オーナーは、2011年チャンピオンに就任後、ビアソムリエの審査員として活動、さらにビアソムリエを目指す人たちの育成に努めているそうです。
ビール純粋令とは
ビールは6000年も前にメソポタミア地域で生まれたといいます。中世初期、僧侶たちは断食期間を乗り越える「飲むパン」として、ビール作りに勤しんでいたようです。
その後、人気のビールに目をつけた中世の商人たちは、急速にビール醸造・販売に注力するようになりました。
一方、ビール醸造が全国的に広まっていく中、残念ながら悪徳業者も増加して、粗悪なビールが市場に出回るようになったのも事実です。そんな悪徳業者を制し、ビールの味と品質を保持するためには、品質管理が必要でした。最古の文書条例は、1156年にアウグスブルクで制定された都市法で、粗悪なビールを作ったり、ごまかすものは処罰すると定められたそうです。
その後、ドイツ各地でビールの味と品質を保持するための条例が定められました。これら条例の締めくくりとなるのが、1516年4月23日にバイエルン公ヴィルヘルム四世が発令した「ビールの原料を大麦、ホップ、水、酵母に限定する」という「ビール純粋令」です。食品に関する条例としては世界最古といわれるこの法令は、発令されてから来年で500周年を迎えます。
ルネッサンス最大の建築・市庁舎
アウグスブルクのお勧めはビール醸造所だけではありません。是非訪問したいスポットをいくつか挙げます。
15-16世紀頃のアウグスブルクは、イタリアとドイツを結ぶ要衝として貿易や商業が発展し栄えました。フッガー家をはじめ、金融家や豪商たちは世界経済をも左右するほどの財力を持ち、当時、この街は「黄金のアウグスブルク」と讃えられたそうです。
街の由来は、ローマ皇帝アウグストゥスの時代、ローマ人により街が建設されたことからといいます。
富豪たちの後押しによって、花開いたのがドイツ・ルネサンス。その代表的な遺構が1615年に建設されたドイツ・ルネッサンス期最大の建築である市庁舎の「黄金の間」です。贅を尽くした装飾は、当時の繁栄を偲ばせます。
世界最古の福祉施設フッガライ
現在、難民受け入れで大きな課題を抱えている欧州ですが、生活に困っている人は何時の時代にも数知れずいました。また困難な立場にいる人を助けたいと名乗りだす人も同じくいました。
アウグスブルクを紹介するのになくてはならない人物は、世界最古の社会福祉施設フッガライ建設のために資金を提供したヤコブ・フッガーです。
フッガーライは、銀の専売権を獲得し、銅山を所有していた銀行家ヤコブ・フッガーが資金を提供して1521年に建てられました。ヤコブ・フッガーはローマ教皇やハプスブルグ家にまでお金を用立てていたという、桁違いの資産家だったそう。
フッガライ居住者の年間家賃(月額ではありません!)は、なんと1ライン・グルデン(現在0.88ユーロに相当=約120円)。光熱費などは自己負担ですが、500年ほどたった今でも家賃は同額で、140のアパートに150人ほどがここで生活をしています。
ここの施設には、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの曾祖父フランツ・モーツァルト一家も住んでいました。施設内の中央通り14番の外壁にその銘板が取り付けられているので、すぐ見つかります。
建物の管理や修理費は今でも続くフッガー家の私財でまかなわれています。ここに入居する条件は、「アウグスブルグ市民である、カトリック教徒である、生活に困っている、一日に3度のお祈りをする」を満たすことが求められていますが、今も順番待ちの人々が後を絶たないそうです。
ヤコブ・フッガーは、「貧困者を支援して自活する手助けになりたい」という願いをこめて、資金提供をしたといいます。
ルターの滞在した聖アンナ教会
以前、マルティン・ルターについて触れましたが、ここアウグスブルクにもルターの足跡が残っています。 フッガーハウスから南へ徒歩で5分ほどの聖アンナ教会、ここにルターは13日間滞在しました。
ルターは、16世紀、カトリック教会が発行した免罪符に異を唱え、抗議するために「95か条の論題」をヴィッテンべルグの教会の扉に張り出しました。これがヨーロッパを騒然とさせた宗教改革(ローマカトリック教、プロテスタントの分離)の始まりでした。
ローマ教皇の怒りを買ったルターは宗教裁判にかけられ、その裁判に通うために宿泊したのがこの聖アンナ教会です。当時、ルターの居住地ヴィッテンベルクから550キロ離れたアウグスブルクまで、徒歩で12日間かけての旅だったといいますから、その時間と労力は現代人には想像を超えたものです。
聖アンナ教会2階の博物館は、宗教裁判に関する資料が展示されています。ルターがこの教会に滞在した13日間、上がり下りした階段は、宗教改革記念室となっています。
この他にもアウグスブルクは、モーツァルトの父、レオポルドや劇作家ベルトルト・ブレヒトの出身地、大聖堂や人形劇など見所満載の街です。
取材協力