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バドミントン・全英オープンを制したフクヒロって? (3) 廣田は水泳でもメダル候補?

楊順行スポーツライター
奥原希望と同学年の廣田彩花。さまざまなスポーツで活躍する大谷翔平世代だ(写真:ロイター/アフロ)

 熊本・菊水中2年のとき。廣田彩花は、郡市の水泳大会に出て、自由形で優勝した。

「その大会は、水泳部が部員不足だったので助っ人で出たんです。郡市で優勝すれば県大会にも出られるんですが、そのときはバドミントンでも県大会に出ることが決まっていたんです。どちらかに絞らないといけなくて、水泳の顧問の先生が"水泳とどっちで出るんだ?"。私は当然、"バドミントンです"って(笑)」

 もともと、バドミントン少女だったのだ。日本リーグ(現S/Jリーグ)が地元・熊本で開催されれば観戦に行き、とくに地元・ルネサス(現再春館製薬所)の末綱聡子/前田美順がお気に入りだった。あこがれの前田からはサインをもらったこともあり、13年に前田が在籍したルネサス入りしたときは、感慨深く感じたという。廣田は、幼いころを振り返った。

「両親(卓也さん・聡子さん)が菊水クラブというところでプレーし、兄2人がやっていたこともあり、小さいころからおもちゃのラケットを振っていました。菊水西小1年で初めて試合に出ましたが、そのときの相手は4年生。当然負けますが、なんでこんなに大きい人と試合をしなきゃいけないの、と泣いたことを覚えています(笑)」

 聡子さんによると、こうなる。

「手がかからない子どもだったというか、寝るのが上手でした(笑)。ただ私たち夫婦も、5歳と3歳上のお兄ちゃんもバドミントンをするものですから、妹だけ家に置いておくわけにいかないですよね。ですから体育館に連れて行き、5歳くらいからラケットを振っていました。そのころは髪も短かったし、よく"三男坊?"と間違われましたね(笑)」

全中出場を逃して引け目を

 だが福島由紀と同様、廣田にも小・中学校では華やかな実績はない。むしろ目立ったのは水泳での活躍で、もし中学2年で水泳の県大会を選んでいたら……2020年の全英オープンを制し、東京五輪もメダル候補のフクヒロはいま、存在していなかったかもしれない。もっとも、全国的にはともかく、県レベルならバドミントンでも傑出してはいた。入学時から165センチ超と長身に恵まれ、中学2年(2008年)の全日本ジュニア新人の部では、ベスト8に入っている。「そのころから、バドミントンがますます好きになったようです」(聡子さん)。ただ県大会を制し、第1シードで全中の九州予選大会に臨んだ3年時は初戦負けし、全中には出られていない。これは、かなりのショックだったようだ。廣田はいう。

「全中に出ていないというのが、どこか引け目になったかもしれません。高校進学のときには強豪校にも誘われましたが、迷ってしまったんですね。強いところでレギュラーになれるかどうか自信がなく、結局、地元の(玉名女子)高校に進みました」

 ためらった背景には、世代的な背景もある。廣田は、奥原希望らと同学年。奥原の強さは中学時代から群を抜いていたし、廣田自身は奥原と対戦するまで勝ち上がる機会すらなかった。男子には桃田賢斗もいて、どちらもきらびやかなスター候補だ。対して廣田の実績は、平凡ではないが決して華麗でもない。それが、自己の過小評価につながった。

 それでも、高校に進んでから徐々に才能が開花していく。「たぶん、中学2年のときに県大会でやってボコボコにされた」福島とは、高校2年のインターハイ単準々決勝で対戦し、敗れはしたが第1ゲームは互角の勝負を演じた。このときのダブルスはベスト32にとどまったが、同じ年の全日本ジュニアはダブルスで準優勝。翌年のインターハイは、シングルスで2年続けて8強入りし、ダブルスも16強と前年の同大会からは一歩前進している。

 そういう高校3年時、廣田は最初大学進学を志した。同学年の奥原は、高校2年で全日本総合を制してすでにナショナルチーム入りしたし、桃田にしてもそう。高校生から日本代表になる彼ら同級生と自分とは、プレーの次元が違う。いきなり実業団に進んだとしても通用しない、まずは大学で力を蓄えよう……と思い込んでいたのだ。だから、「ルネサスから誘いがあるぞ」と玉名女子・永松勇一郎監督にいわれても、「そんな高いレベルでプレーする自信がありません」と尻込みしていた。高校進学時と、どこか似たような状況だ。

 だがそこで、ルネサスの今井彰宏監督(当時)の言葉に、目からウロコが落ちた。

「いまでもよく覚えています。""最初から自信のあるヤツなんて、いないんだよ"と」

最初から自信のあるヤツはいない

 ルネサスといえば、伝統的なダブルス王国だ。04年のアテネ五輪には、吉冨桂子(現アメリカンベイプ岐阜コーチ)が出場。08年の北京では、末綱/前田が日本勢の五輪史上初めて4位に入賞し、12年ロンドンでは、藤井瑞希/垣岩令佳がこれも初めての銀メダルを獲得している。そのスエマエにしてもフジカキにしても、高卒でルネサスに入社し、徐々に力を蓄えていったのだ。今井監督の言葉は、怖じ気づく廣田の背中を押してくれたかもしれない。

「高校進学のときは、自信がなくて地元にとどまりましたが、社会人では"やってみようかな"と。それにしても、子どものころから自分が応援していたチームに入るというのは、なにか不思議な気がしました。それと、高校時代は雲の上の人だった奥原さんや桃田君と、いまは一緒に世界を回っているのも変な感覚ですね」

 そして、東京五輪に向けた思いで締めくくってくれた。

「自分が社会人になった13年に、オリンピックの東京開催が決まったんです。そのときは、オリンピック自体がぼんやりしていたのに、自分には運があるなと思いました。単なる年齢の巡り合わせだとしても、国内でやるなんて一生に一度のことじゃないですか。まずはその舞台に立つこと、そして大きな目標としてはメダル、それも一番いい色がほしいですよね」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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