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19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:MeijiShowa/アフロ)

ウィーン会議後の混乱の中、モンロー主義で力をつけたアメリカと自由貿易を広げるイギリス

 1815年にワーテルローの戦いでナポレオンが大敗し、貴族や王を中心とする体制に回帰しましたが、フランス革命で芽生えた自由主義、ナショナリズムの流れはとどまらず、ウィーン体制は崩壊しました。同時に、マルクスらによる共産党宣言も刊行されました。各地で民族国家の建国を目指した動きも始まりました。一方、独立を果たしたアメリカは、1823年にモンロー主義を宣言し、国土を広げていきます。

 また、イギリスで始まった産業革命は各国に広がり、蒸気船や蒸気機関車が開発され、人流・物流に大変革が起きました。アジアでは、イギリスが自由貿易を標榜して勢力を拡大し、清とのアヘン戦争に勝利し、香港、マラッカ、シンガポールなどを手に入れます。清は、太平天国の乱も起きて衰退していきます。

 西アジアでは、弱体化したオスマントルコの領地をめぐって、南下するロシアと英仏との対立が深まり、クリミア戦争が起き英仏が勝利します。さらに、イギリスはインド大反乱を鎮圧してインドを植民地にし、ヴィクトリア時代と呼ぶ繁栄の時代を迎えます。

ウィーン会議の直後に感染が始まったコレラ

 感染症のコレラは、インドのガンジス川を中心とした風土病でしたが、イギリスによるインドの植民地化などのため、世界に感染しました。1817年にカルカッタで流行したコレラは、マラータ戦争の中、イギリス軍がインド国内に拡散し、さらに中近東や東アジアなど世界に広がりました。コレラ感染によるイスラム世界のダメージは大きく、オスマントルコの衰退にもつながりました。感染はヨーロッパやアメリカ、中南米にも拡大しました。死者は世界で数千万人に及んだようです。蒸気船や蒸気機関車などが感染速度を速め、工場労働者の過酷な労働環境や飲み水の衛生状態が感染を拡大させました。コレラ感染の様子は、1832年のパリの6月暴動を描いた「レ・ミゼラブル」や、シャム王とイギリス人家庭教師のアンナを描いた映画「王様と私」でも紹介されています。

 1822年には日本にも伝染しましたが、当時はまだ鎖国状態で、関所も多かったため、江戸にまでは伝染しませんでした。ですが、1858年には江戸にまで達し、江戸でも多くの死者が出ました。激動の江戸末期ですから、色々な影響を与えたと想像されます。

激動の世界の中、鎖国中の日本は地震・飢饉で疲弊し、黒船来航で開国へ

 19世紀初頭の日本は鎖国中でしたが、1792年にロシアのラクスマンが根室に来航して以降、ロシア、イギリス、アメリカなどが通商を要求するようになり、いくつかのトラブルも発生しました。当初は、間宮林蔵や伊能忠敬に樺太の探検や蝦夷地の海岸線の地図作成を命じ、1825年には異国船打払令を出すなど、異国船に強硬策で対応しました。ですが、1842年にアヘン戦争で清がイギリスに敗れたことから、列強の強さを知り、異国船打払令を廃止して遭難船を救済する薪水給与令を定めました。1844年には、オランダが諸外国の状況を幕府に伝え、開国を勧告します。そして、1853年、蒸気船に乗ったアメリカのペリーが浦賀に、ロシアのプチャーチンが長崎にやってきます。当時の人たちは、木造の和船と比べてけた違いに大きな黒船に仰天したようです。

 この間、日本では、地震、飢饉などが起きます。1819年8月2日に文政近江地震、1828年12月18日に新潟で三条地震、1830年8月19日に文政京都地震、1833年12月7日に庄内沖地震など、M7クラスの地震が起きます。また、1833年から39年には、洪水や冷害によって天保の飢饉が起きました。この飢饉で、100万人以上の人口が減ったとの指摘もあります。この間には、1837年に飢えた人の救済を行った大塩平八郎の乱が大坂であり、1839年には鎖国を批判した洋学者の渡辺崋山や高野長英を弾圧する蛮社の獄が起きました。

 飢饉後、1841年に水野忠邦が天保の改革を進めますが成果はでませんでした。1843年に忠邦が罷免され、代わって阿部正弘が幕府を動かしました。正弘は列強の力をよく認識し、ペリー来航も事前に察知していましたが、適切な対応ができず、1854年2月に日米和親条約を締結し、開国します。正弘はその後、勝海舟などを登用し、講武所や海軍伝習所、洋学所を作って欧米の列強への備えを進めました。1857年に正弘が死去した後に幕府を担ったのは、開国派の堀田正睦と井伊直弼です。

ペリー来航直前から頻発した地震

 諸外国からの開国圧力が強まる中、大地震が続発しました。1847年5月8日には長野で善光寺地震が起きました。善光寺の御開帳に重なったこと、山崩れで犀川にできたせき止め湖が決壊したことなどのため、1万人を超す犠牲者が出ました。

 ペリー来航直前の1853年3月11日には小田原地震が起きます。さらに、日米和親条約締結後の1854年7月9日に三重県で伊賀上野地震が、そして12月23日に東海地震、翌24日に南海地震、26日に豊予海峡地震が発生します。ペリーの来航や地震を受けて、翌1855年には、元号が嘉永から安政に改元されます。しかし、災異改元したものの、地震が続発します。3月18日に飛騨地震、9月13日に陸前地震、そして11月11日に江戸地震が発生します。さらに、1856年8月23日に八戸沖地震、1857年10月12日に芸予地震、1858年4月9日に飛越地震と、大地震が続発しました。

 飛越地震では跡津川断層沿い、神通川流域、常願寺川流域などで山崩れが多発しました。とくに、立山連峰の大鳶崩れによって立山カルデラに大量の土砂が流れ込んで、常願寺川にせき止め湖ができました。これが二度にわたって決壊して下流に大被害を出しました。地震以降、急流河川の常願寺川は暴れ川となり、我が国の砂防発祥の地となりました。

30時間差で発生した東海地震と南海地震で西日本が広域に被災

 東海地震では、静岡~三重を強い揺れと高い津波が襲い、東海道の宿場は家屋倒壊や火災被害を受けました。このとき、伊豆半島の下田ではプチャーチンと日露交渉が行われており、戦艦ディアナ号が津波により大破しました。ディアナ号は修理のため伊豆の戸田に曳航中に沈没します。その後、乗船していたモジャイスキーの指導で、日本の船大工が洋船・戸田号を建造し、乗務員をロシアに帰国させます。洋船の建造技術を学ぶきっかけになりました。1855年には、日露和親条約が結ばれます。

 南海地震では、高知や和歌山などが強い揺れと津波に見舞われました。大坂でも、津波によって河川を遡上した大型船により大きな被害を受けました。1707年宝永地震と同様の被害を出したことを反省して、地震後、大正橋東詰に大地震両川口津浪記石碑が建立されました。

 南海地震のとき、和歌山の広村で、庄屋の浜口梧陵が津波から村人を救った逸話は、1896年明治三陸地震津波のあと、小泉八雲によって「A Living God」として紹介されました。戦前の尋常小学校の教科書には「稲村の火」として掲載されました。梧陵は現在のヤマサ醤油の当主で、地震後、私財を投じて広村堤防を築きました。初代駅逓頭(郵政大臣に相当)にも就任しています。また、当時流行していたコレラの防疫にも意を注いだようです。

 実は、東海地震のときにも梧陵のような人が居ました。愛知県半田市にあるミツカンの当主だった三代中野又左衛門が、職を失った村人の雇用確保と地元・半田復興のため、自ら資金を投じて半田運河や中埜宅本邸の大工事を行いました。広村堤防や半田運河を歩いてみて、先人の為した仕事の凄さを実感するのも良いかもしれません

直下地震、台風、コレラに見舞われた江戸

 安政江戸地震では、日比谷の入江を埋め立てた大名小路や、隅田川の東側の沖積低地で大きな被害が出ました。地震後、30数箇所で火災が発生し、新吉原では1000人以上が死亡しました。また、小石川にあった水戸藩上屋敷では、屋敷が崩れ、徳川斉昭を支えた藤田東湖と戸田忠太夫が圧死しました。

 翌年の1856年9月23日には台風が江戸を襲い、多くの建物が損壊しました。高潮も発生したようで、死者が10万人に及んだとの記録もあるようです。安政江戸地震と安政台風の被害の様子については、安政見聞録、安政見聞誌、安政風聞集に詳しく記されています。1856年には、ハリスが来日し、通商条約の締結を迫ります。同年には、英仏と清との間でアロー戦争も始まっており、日本は内憂外患の状態になりました。

 さらに、長崎から始まったコレラの流行が、東海道を通って江戸まで達し、1858年から59年にかけてコレラが大流行しました。江戸だけで死者が3万人(一説では10万人)に及んだようで、安政箇労痢流行記に当時の様子が記されています。1862年には、はしかが大流行し、江戸だけで24万人もの死者が出るとの記録もあるそうです。

 このように、激動の中、幕府のおひざ元の江戸は、地震、台風、疫病に苦しみました。

激動の日本は、安政の大獄から明治維新へ

 1858年には、井伊直弼が大老に就任し、日米修好通商条約を締結します。将軍継嗣問題もあって、開国派の井伊直弼と尊王攘夷派との対立が深まります。直弼は、安政の大獄によって開国反対派を弾圧し、徳川斉昭などを謹慎させ、吉田松陰などを処刑します。直弼は、1860年3月24日、桜田門外の変で、水戸藩や薩摩藩の脱藩浪士によって殺害されます。同年には、咸臨丸に乗った幕府の使節団がアメリカを訪問し、列強の近代化を目の当たりにします。

 一方、薩長などの尊王攘夷派は、1862年生麦事件、1863年薩英戦争、1864年下関戦争などで、列強の強さと攘夷の難しさを思い知り、イギリスと接近します。この間、幕府や各藩は英仏などから近代技術を急速に学んでいきます。そして、1866年薩長連合、第2次長州征伐、1867年大政奉還、王政復古の大号令、1868年戊辰戦争を経て、明治維新へと向かいました。

多くの国が勃興して混とんとするヨーロッパ大陸と南北戦争に突入したアメリカ

 ヨーロッパ大陸では、力を取り戻したフランスが自由貿易を進めます。また、クリミア戦争に敗れたロシアも近代化を進めます。1861年にはイタリア王国も成立します。ビスマルクを擁するプロイセンは、フランスとの普仏戦争(1870~71年)に勝利し、ドイツ帝国ができ、以後、独仏の対立が増します。ヨーロッパには、新たな民族国家が生まれ、混とんとした状況になります。この間隙を縫って、日本に現れたのがアメリカでした。ですが、アメリカも、遣米使節団が渡米した翌年から南北戦争(1861~65年)を始めます。多大な犠牲者を出した戦争でしたが、1863年にはリンカーンが奴隷解放宣言を発表し、戦後の1867年にはロシアからアラスカを買収、1869年には大陸横断鉄道が開通し、ゴールドラッシュが始まりました。これによって、大国・アメリカが誕生していきます。

 まさにこの絶妙なタイミングで、日本は明治維新を迎え、挙国一致で大改革を進め、一気に近代化を成し遂げていくことになります。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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