日本経済再生の鍵は安定雇用だ
雇用の削減が引き起こす負の連鎖を断ち切れ
雇用関係というのは、現代社会においては、社会を構成する人間関係の基底です。やはり、雇用の安定がなければ、社会の安定はなく、社会の安定なくしては安定需要も生まれ得ず、安定需要なきところ安定供給もないという意味で、雇用は経済の根幹なのです。
ところが、もう随分と長いこと、日本の産業界では、雇用の削減であるとか、給与等の処遇の引き下げであるとか、派遣等の非正規雇用の拡大であるとか、経営費用の削減あるいは経営合理化の名のもとに、安定雇用を揺るがすようことが行われてきたようです。少なくとも、そのような事例を伝える報道記事が、うんざりするほどに沢山、流れてきたように思います。
私は、一方では、円高による国内生産の縮小など日本の産業界のおかれた状況を考えれば、仕方ないのかな、と思いもしてきましたが、他方では、雇用や処遇の削減は、結果的には、需要の減退を招いて売上げの減少につながるのではないか、との懸念も感じてきました。雇用問題だけでなく、一般に産業界全体が費用の削減に傾けば、当然のこととして、ある企業の費用の反対勘定は別な会社の売上げなのですから、反射効果により売上げの減少が起こり、そのことが更なる費用の削減を誘発するという負の循環が起こりやすくなるわけでしょう。事実、これまでのところ、そうした累積的経済縮小の圧力が強く働いてきた可能性は否定できません。負の連鎖ですね。
企業の収益環境の一時的な悪化により、人件費も含めた費用の削減が生じるのは当たり前のことですが、費用の削減により収益状況が好転すれば、経営姿勢として、再度、拡大成長志向へ転じて、企業の支出が拡大し、経済全体が好転していくことが予定されているのです。そのような循環性、自律的な調整機能こそが、経済の本質であったはずです。
負の連鎖というのは、循環的反発が生じないで、縮小のほうへ底抜けてしまうことです。逆に、拡大方向へ進んだときに循環的反動が生じないで、拡大が発散的に上に突き抜けるのがバブルです。どうやら、この頃の経済は、簡単には循環的な自律的調整を生じないで、上か下に突き抜けてしまい易いようです。
なぜ、経済の自律的調整力が弱いのか、その弱さを補うように政府が財政支出を拡大してきたのに、結果として巨額な財政赤字が累積した一方で、景気浮揚効果に乏しく、その弁済原資となる税収の拡大が見込めないという深刻な苦境に日本が陥ってしまったのはなぜか、などという根源的問題については、実のところ、十分な科学的究明もなされていないと見受けられます。故に、この期に及んでも、有効な政策が打ち出されていないのです。本当に困ったことです。
しかし、困った、困った、政府よ、どうかしろ、という当事者意識なき無責任な批判や不平は生産的ではありません。民間産業界たるもの、明るい未来のために、やるべきことをやればいいのです。そういう意味で、一体、産業界として雇用について何がなされるべきなのでしょうか。
経済の自律反発を阻む経営者の自信喪失
経済の自律的循環的調整能力が弱くなったことの背景には、おそらくは、貨幣的現象としての金融の働きが実体経済へ影響を及ぼしていることがあるのだろうと思います。具体的には、資本規制下にある銀行の融資行動です。企業が短期的な収支の均衡を強く意識するようになったのは、赤字を続けることが銀行取引の安定性を維持することの障害になり易いからでしょうし、業績が完全には回復しない時期に先手を打って投資を行うことが難しくなっているのも、その時期には投資資金の調達が容易ではないからでしょう。
まさに、有名な、雨が降ったら傘を取り上げる、の矛盾です。雨が降ったら、というのは経営が苦境に陥ったときには、という意味であり、傘というのは、そのときに必要となる金融支援のことですが、傘を取り上げる、というのは、銀行は、金融支援が必要なときには、なかなか融資に応じないどころか、逆に弁済を迫るものだ、という意味です。これでは、金融の社会的機能は果たせないし、景気循環的にも、不況を一層悪化させることにもなり兼ねないのです。もっとも、こうした金融の問題は、また別に論じるとして、ここでは、別の側面を論じましょう。
ここで強調したいことは、経営者の自信といいますか、経営者の自己の事業の将来に関する確信の重要性です。あまりにも当然のことですが、企業経営には、将来の不確実性に関する一種の賭けの要素を含みます。賭けは、定義により、科学的推論の帰結ではなくて、確信に基づく決断です。要は、自信がなければ賭けられない。賭けがなければ、企業の成長はない。投資も誘発されない。雇用も創造されない。成長へ賭けることこそが、企業家精神です。経営が自信を喪失すれば、企業家精神も失われる。
ここで注意されるべきは、浅薄で表層的な企業統治論の横行です。そもそもが、合理的に説明できる意思決定などというものは、経営の仕事ではない。合理的推論からは答えが出ないからこそ、経営判断が求められる。経営判断の合理的説明は不可能です。合理的説明が可能な判断は、経営の最高階層のものではなくて、現場に権限移譲された下位の階層のものです。
もしも、経営の合理性と透明性あるいは説明責任というような耳触りのいい言葉のもとで、経営における賭けの要素を否定するならば、企業の成長はなくなります。そもそも、決断とは極めて責任の重いことです。その重責を果たすからこそ、経営なのです。一方、安易で表層的な企業統治論は、決めることのできない無責任な経営者にとっては、居心地のいいものでしょう。
おそらくは、負の連鎖は、決断によってのみ断ち切れるのでしょう。逆に、無決断、無定見、無責任な経営のもとでは、無限退行的に費用削減などの合理化という名の縮小均衡への努力が小規模に順次繰り返されていくなかで、縮小均衡どころか、均衡点を得ることができないままでの累積的縮小が起きているのではないでしょうか。この泥沼からの脱却は、偏に経営の自信回復と決断にかかるのです。
経営の自信と責任と安定雇用
雇用の問題とは、どのような関係になるかというと、ずばり、安定雇用は経営の自信を前提にしている、ということです。経営の自信が揺らいだときから、安定雇用も揺らぎ始めたのだ、ということでしょうね。理屈上、経営の不確実性を小さくするためには、経費の可変性を大きくしたほうがいい。売上げが増減しても、経費も並行して増減すれば、収支の均衡は崩れないからです。人件費の可変性を大きくする工夫が、派遣等の非正規雇用でしょうし、業績連動型の報酬体系です。
それに対して、古典的な安定雇用の仕組みは、人件費の固定化を招きます。短期的な売上げの減少を経営体力で吸収できるだけの将来についての自信がなくては、安定雇用など、維持できないわけです。しかしながら、そもそも、人件費は単なる費用なのでしょうか。安定雇用の背景には、実は哲学があって、人件費を費用ではなくて投資とみなす考え方があったのです。
例えば、企業の年金退職金制度は、人事政策的には、長期勤続奨励の仕組みです。その背後にある哲学は、長期勤続により、人は仕事に熟練する、人は仕事に誇りと愛着をもつ、故に、企業の作り出す製品やサービスの質が高度な水準に保てるだけでなく生産性も向上する、それが企業の真の競争力につながる、という経営の人に対する明るく豊かな信頼と信念なのです。
この思想は、どうみても正しい。永遠の真理です。この崇高な思想のもとに、安定雇用政策があるのです。実のところ、安定雇用政策が揺らぎ始めたとき、企業の年金退職金制度も揺らぎ始めたのです。
日本産業の国際競争力の源泉は、どうみても、価格ではなくて、質です。その質の源泉は、雇用の質、まさに人材にあるのだから、安定雇用は絶対に必要だ、ということになるはずです。安定雇用は、日本産業の国際競争力の決め手なのです。しかも、それだけではない。安定雇用は、確かに、一時的な業績悪化のときは苦しいかも知れない。しかし、その安定雇用の維持が、結果的に、経済の自律反発力を強くするのだと思います。また、安定雇用が被用者の消費を刺激する効果も大きいでしょう。将来に対する不安が大きくなれば、消費が抑制されるのは当然です。
思えば、昭和の時代には、安定雇用を背景とした消費が経済を牽引してきたのです。特に、自動車や家庭電気製品に象徴される消費財の生産者などは、給与の引上げが、そのまま売上げ増に跳ね返るような好循環のなかで、急速に成長してきたのです。そこには、確かに、経済原則が正しく機能していたのです。
昭和の復古はあり得ないですが、日本が輝いていたときには、学ぶべきものも多いはずです。最近では、大学生の就職は大変に難しいようです。しかし、どの経営者でも、学生に将来の仕事を保証できてこそ一人前の経営者だな、との思いを強くもっているはずです。
やはり、社会の規則として、社会に対する責任を負わない企業などあり得ないわけでしょう。しかも、社会に対する責任を果たすことが、同時に、社会から報われることにもなるはずです。企業の被用者が企業の顧客です。企業は、雇用に対する責任を果たすことで、顧客を確保しているのです。それが、経済の仕組みであり、社会の仕組みです。
以上