【京都市】中京区 高瀬川沿いにある幕末ロマンの碑『佐久間象山先生と大村益次郎の碑』
京都の繁華街である三条通りを横切るように高瀬川が静かに流れています。
佐久間象山遭難の碑、大村益次郎遭難の碑「北へ約壱丁」と書かれた石碑がありました。
幼い頃から週に何度も通っていた道です、そこが歴史的に意味があったことを大人になって初めて知りました。
『佐久間象山』というひとをご存知ですか?信濃(長野県)松代藩士で、「開国論」を唱えた幕末の思想家です。儒学や朱子学を修め西洋科学の導入による殖産興国を目指した人です。
勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰ら多くの俊才を教育してきました。1864年に、騎馬で山階宮家よりの帰途、佐久間象山は突如、「人斬り彦斎」とも呼ばれていた尊王攘夷派の浪士、河上彦斎に襲われて斬られたと言われてますが諸説ありです。とにかく、その場で即死だったそうです。
また、『大村益次郎』という人をご存知でしょうか?周防国(山口県)の生まれ、医学や西洋兵学を学び、兵学の第一人者となって「戊辰(ぼしん)戦争」に活躍した人です。
佐久間象山が亡くなった5年後である明治2年9月4日、旅宿の奥座敷二階で大村益次郎が不平派士族に襲われ、斬られその傷が原因となって亡くなってしまいます。
その二人のために建てられた石碑が、ここからもう少し北に上がったところにあるという示しの石碑が三条木屋町のところにありました。
もう少し北に移動すると…ありました!
駒札によれば、佐久間象山(右)と大村益次郎(左)が暗殺された場所に建てられた石碑だということでした。
「煙雨楼」と命名して気に入っていた象山先生の「佐久間象山寓居之址」の石碑もあります。
この短い距離の中で日本の歴史の中で重要な役割を果たしていたのかと思うと、驚きます…
また暗殺されたとされる場所からすぐ後ろを振り返ると桂小五郎が芸者幾松と住んでいたとされる場所に「桂小五郎幾松寓居跡」もあったり、「維新庵」ビルなどもあります。
少し歩くと「三条通りには池田屋騒動の池田屋跡などもあります。幕末の歴史ロマンを巡るスポットめぐりをするには、必須の場所ですね!
「佐久間象山・大村益次郎遭難之碑の石碑」
住所:京都市中京区二条木屋町下る一之船入町