【鎌倉時代】源実朝の暗殺事件とその黒幕について考えてみる
源頼家が失脚し12歳で3代目鎌倉幕府の将軍となった源実朝。就任当初に幼かった将軍は28歳となり若き将軍となりました。
ところが、源実朝が突然凶刃に倒れます。
この源実朝暗殺事件によって、鎌倉幕府に再び暗雲が立ち込める事になりました。
成長を遂げた3代目鎌倉殿・源実朝
年齢を重ねると共に源実朝は自分の意見を持つようになり、裁判を直接判決するなど政治にも積極的に関与しています。また、京文化に興味をもち、和歌などを通じて後鳥羽上皇との関係も良好でした。唯一の懸念材料は跡継ぎがいない事でしたが、これは後鳥羽上皇の皇子を後継ぎにする事でまとまっていました。
こうした順風満帆に思える実朝の人生を悲劇が襲います。
源実朝の暗殺
1219年1月27日に実朝は右大臣拝賀式のために鶴岡八幡宮を訪れていました。昼間の晴天がうそのように雪が積もる寒い夜だったと言います。
儀式が終わり鶴岡八幡宮の長い石段を下りた時に、一人の僧が突然襲い掛かり実朝を斬りつけ首を落としました。この時、近侍していた源仲章も一緒に命を落としています。
この暗殺の犯人は2代目鎌倉殿・頼家の子で鶴岡八幡宮の別当である公暁でした。
公暁が実朝を暗殺する背景
公暁が5歳の時に父である2代目鎌倉殿・源頼家が殺害され、兄や母方の比企一族も粛清されています。
幼いころに身内を亡くした公暁は出家し、18歳になると八幡宮の別当に就任しました。そして、別当就任直後にかねてからの願望である一千日の参篭※に入ります。一切姿を出さなくなった公暁はひたすら祈り続けたのですが、出家してたのにもかかわらず髪を伸ばし続けていたと言います。その対応に『公暁は父と兄の仇として実朝を呪い殺したのち、還俗して将軍をねらっているのではないか?』とうわさになりました。
そんな折に公暁がいる鶴岡八幡宮にて実朝の右大臣拝賀式が行われ、八幡宮の石段で実朝が公暁によって暗殺されるのです。
犯行の動機は実朝を親の仇だと言うことですが公暁もまたその日に討ち取られており、事件の真相は闇の中となりました。
※神社や仏堂などへ参り一定の期間昼も夜もこもって神仏に祈願する事(Wikipediaより)
源実朝暗殺の謎
源実朝暗殺の真相は現在も明確に分かっておらず、源頼朝の死と同じく鎌倉時代の謎として研究されてきました。事実としてわかっているのは以下の3点で、それ以外は多くの謎に包まれています。
- 1219年1月27日の夜に暗殺された
- 場所は鶴岡八幡宮のどこか
- 犯人は公暁
暗殺は単独犯だったのか?
短時間で実朝と源仲章が殺害されている事を考えると、単独での犯行は難しいと思われます。共犯者として疑われるのは八幡宮の僧たちですが、取り調べの結果、無罪とされています。愚管抄の記述から3人から4人が源仲章(北条義時だと思い)に切りかかったとある事から複数による犯行だと考えられます。
殺害の動機と黒幕説
一般的に殺害の動機は父の仇とされていますが、実際に父・源頼家は実朝が殺したわけでなく、北条氏の手の者によって行われています。当時5歳だった公暁が父の死の真相を理解しておらず、何者かが『頼家は実朝の命で殺された』と吹き込んだ可能性もあります。
こうした考察から北条義時や後鳥羽上皇、三浦義村などの黒幕説が誕生しています。
北条義時黒幕説
吾妻鏡では北条義時は実朝と共に鶴岡八幡宮に向かったとされますが、途中で体調不良を訴え侍従の役を源仲章に代わってもらっています。そのため、源仲章は実朝と共に殺されてしまいました。
この行動から『公暁の暗殺計画を義時は事前に知っていたのではないか?』という疑念を持ち北条義時黒幕説が生まれています。
先述したように公暁にとっての仇は実朝ではなく北条氏というのがストレートな考えです。そのため公暁としては源実朝と同時に北条義時も討ちたいのが本音でしょう。しかし、侍従の役が源仲章に変わっていたことで、義時と間違われて公暁に殺されてしまったのではないかと思います。
三浦義村説
義村の妻は公暁の乳母であった事から実朝暗殺を裏で糸を引いていたという説があります。また、幕府のナンバー2にも関わらず三浦義村は鶴岡八幡宮の儀式に参加していませんでした。
義村が公暁を使って源氏と北条氏を倒し、権力の座を手に入れようとしても不思議ではありません。実際に公暁が実朝を討ち取った後、義村に将軍となる旨を伝えています。理由は分かりませんが、実際に三浦義村は兵を準備し自邸に身を潜めていたと言います。
北条・三浦共同説
先ほどの義村説のやり取りが全て、義時と義村の二人の計画だったという説です。
この頃の実朝は政治に関与するようになり、政治家として力をつけ始め、朝廷との連携も視野にあったと言われています。
そうなると執権として実権を握っていた北条の権力が小さくなるので、幕府の中心にいた北条と三浦が手を取り合ったのではないかと考えられています。
後鳥羽上皇説
後鳥羽上皇は隙あらば幕府転覆を狙っていたので、トップである実朝を排除しようとした説。朝廷の権力回復は動機としては十分ですが、公武融和路線を取る実朝に好意的であったことから否定もされています。
しかし、公卿の地位争いに実朝が介入した事件で二人の関係が悪化したともあるので真相は定かではありません。
公暁単独犯説
三浦義村に『これで私も将軍だ』と言ったように、征夷大将軍の座を少なからず狙っていたのは間違いありません。また、大江広元が実朝に『衣装の下に腹巻をつけてください』と意味深な発言をしていることから、刺客が来ることを知っていた可能性があります。
裏を取っていないにしろ何らかの兆候があったように感じるので、公暁の単独犯だとしても突発的な犯行ではなく、相談者ありきの計画的な犯行だったと言えるでしょう。
以上のように証拠が不十分で謎が多い実朝の暗殺事件ですが、当時を想像して【歴史のif】を考えるのも歴史の楽しみ方の一つだと私は思います。
その後の公暁と源実朝の首の行方
実朝の首を抱えたまま、公暁は三浦義村との待ち合わせ場所で待っていました。
しかし、義村はあらわれず、待ちきれなくなった公暁は直接三浦邸に向かいました。そして、三浦邸に到着しますが中に入ろうとしたところで討ち取られてしまいます。
実朝の首は吾妻鏡によると所在不明となっていますが、愚管抄では公暁が逃げていた山中の雪の中から発見されたという事です。
なぜ、吾妻鏡に記載がされていないのでしょうか?
北条氏にとって不都合な事でもあるのでしょうか?
ちなみに『吾妻鏡は北条得宗家に忖度した鎌倉幕府の公式記録』と付け加えておきます。
参考文献
板野博行(2021)・眠れないほどおもしろい吾妻鏡・三笠書房