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妻として母として大津波に流された3.11 失敗し、そして生き抜いた日

斎藤秀俊水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授
安倍志摩子が子供に無事を知らせようと送信したメールの内容(筆者撮影)

 安倍志摩子(58)は大津波の日、夫(60)とともに壊れた会社事務所の床の上に乗り、河口付近から川を遡っていた。流されながら携帯電話で子供たちに無事を知らせようとしたがつながらず、メールを打って送信した。その時の内容がカバー写真である。壮絶な大災害発災時に送信されたメール。この内容に生還につながる様々なヒントを見ることができる。

津波の出前授業

 志摩子は夫とともに宮城県東松島市の野蒜海岸近くで海洋土木の会社を経営していた。夫がこの土地で生まれ育ったため、子供たちばかりでなく夫も近くの野蒜小学校に通って、卒業した。そのため、志摩子は夫と二人三脚で大地震の起こる9年前から毎年、野蒜小学校に出前授業に出かけた。

 授業では、田畑ヨシさんの紙芝居「つなみ」を使った読み聞かせで「津波の恐れがあったら高台にすぐに避難」、始めて3年経った頃からはプールでの実技も取り入れて、どうしても津波に追い付かれてしまったら、浮くものを使って「ういてまて」と教えてきた。図1に、津波ですでに無くなってしまった自宅(会社は隣接)、ならびに周辺の位置関係を表した地図を示す。

図1 東日本大震災前の安倍志摩子自宅とその周辺の位置関係(YAHOO!地図をもとに筆者が作成)
図1 東日本大震災前の安倍志摩子自宅とその周辺の位置関係(YAHOO!地図をもとに筆者が作成)

大津波がきた

 そして2011年3月11日を迎えた。震源から野蒜海岸まで距離はおおよそ100 km強と近いため、緊急地震速報が表示された頃にはすでに揺れが始まっていた。これまで体験したことのない長さで強い揺れが続いた。そしてほぼ4分後には大津波警報が発表された。

 志摩子は何をしていたかというと、まず近所のお年寄りに怪我がないか見回り、その後断水を心配して、水をくんでいた。ところが、この時間にはすでに津波第1波が野蒜海岸に到達していたと思われる。海岸から200 m内陸にいた志摩子が気がつかないのも無理はない。

 おそらく揺れから1時間後、複数の津波があわさり、いっきに陸に襲来した。外で近所回りを続けていた夫はその瞬間、異様な音を聞いた。志摩子が夫に呼ばれて外に出ると、北東方向の道の向こうに、その先の樹木の高さをはるかに超える津波を見た。付近を流れる鳴瀬川を河口から逆流して上ってきた津波だ。背中が凍りついた。志摩子は自宅に、夫は隣接する会社に逃げ込んだ。

 いつも野蒜小学校で子供たちに「早く逃げよ」と教えているのに、1時間も自宅付近から離れなかった。結果的に「近所のお年寄りたちは大丈夫か」という心配が行動を邪魔した。そして、自分の行動を正当化するために、「この辺は、1960年のチリ地震の津波でも冠水はひどくなかった」というバイアスを自分に言い聞かせていた。「早く避難。」頭ではわかっていても、できなかった。

漂流、そして川の逆流

 地獄絵図の様相だった。自宅はみるみる津波にのまれ、ボンという音とともに自宅が浮き上がり、志摩子の漂流が始まった。2階のベランダから外を見ると、同じように漂流が始まった会社事務所が見えた。そして真北の方角にある白鬚神社、ちょうどその神社前にて自宅と会社事務所がそれぞれ接触し、2階部分でつながった。志摩子は夫のサポートで会社事務所に飛び乗るようにして移った。

 会社事務所2階では、最悪の場合、自分たちの遺体がすぐに見つかるように2着あったイマーションスーツをそれぞれが着た。イマーションスーツとは図2に示すように着ぐるみのようなスーツで、抜群の保温性をもつばかりでなく、水に落ちても長時間浮いていることができる。命を落としたとしても、浮いているので発見が早くなる。

図2 イマーションスーツ(安倍志摩子氏提供)
図2 イマーションスーツ(安倍志摩子氏提供)

 漂流は続き、鳴瀬川河口に入った。津波のため川は陸側に激しく逆流していた。そのため会社事務所は川を遡上、合流点で吉田川に入りなお遡上が続いた。海がどんどん遠くなった。そしてその後JR仙石線の鉄道橋にぶつかり、建物は完全に崩壊した。いつの間にか志摩子の周りにあるはずの屋根と壁がなくなっていた。残った事務所の床と一緒に吉田川を遡っていた。

 志摩子は床の上に乗っていた。そして、夫は水面に浮いていて、意識がなかった。事務所が破壊された時の衝撃で上半身を何かに激しく打ち付けたようだ。夫に声を掛け続け、何とか意識を取り戻したところで、水面から床の上に這い上がらせた。ふたりで、床の上で無事を喜び、抱き合った。

 「子供たちが心配しているかもしれない。」志摩子は携帯電話で子供たちに連絡を取ろうとしたが、つながらなかった。ところが電子メールのメッセージを使えば、やり取りができた。「お互いが少しでも前向きに考えられるように」と考えて打った内容がこのようだった。

「津波にながされた でもパパと無事 事務所の床にのってる 船みたい さむいけど 大丈夫」

 そして、河口から7 kmくらい流されたところで逆流が止まった。「ここから海に引き戻される」と思い、ふたりで川面に浮かぶ廃材を転がるように「ういてまてだね」と言いながら進み、上陸することができた。最後まであきらめない、この気持ちが通じた。

野蒜小学校では

 同じ頃、野蒜小学校の体育館には多くの住民が避難していた。これから夜を過ごすための準備をしようとしていたところ、津波が襲ってきた。水位はみるみるあがり、図3に示すように2階ギャラリーの足元まで達した。多くの住民はギャラリーに避難できたが、避難できなかった児童や教員がいた。児童と教員たちは最後の手段として、志摩子から習った「ういてまて」を実践した。「津波に追い付かれてしまったら使う」と教わった通りにした。ラッコが浮いているような背浮きになったら、浮いた。そして呼吸もできた。そのまま、水位が下がるまで待って、助かった。

図3 旧野蒜小体育館津波災害後の様子。2階ギャラリー足元付近に水位を示すすじが残っている(筆者撮影)
図3 旧野蒜小体育館津波災害後の様子。2階ギャラリー足元付近に水位を示すすじが残っている(筆者撮影)

教訓

 今回のお話を聞きながら筆者なりに教訓をまとめた。

 大きな地震があったら、海岸付近から一刻も早く高台に避難する。「自分の命は、自分で守れ」と日頃から言っていても、いざとなると愛が邪魔をし、都合のよいバイアスがかかる。「子供は、親は、近所は、まだ逃げ切れていない中で自分だけ避難するのか。」答えはやはり「自分の命は自分で守らなければならない。」

 日頃からの準備も必要だ。ダウンジャケットのような厚手のジャケットはライフジャケットほどの浮力があり、その浮力は数時間程度もつ。夏場でも家の中の目立つところにかけておきたい。ライフジャケットがかけてあればさらによい。そして高台に避難する時には、財布よりも位牌よりも最優先で身に着けていきたい。

 加えて、自分を含めて、大切な人たちは最後の手段としての浮き方を勉強すべき。「最後まであきらめない」という言葉だけではダメだ。日頃から正しい知識を身に着け、訓練することが、「最後まであきらめない」ことにつながる。

現在は

 看護師資格をもつ志摩子は上陸後、地元に戻り避難所で救護活動に参加した。家も会社も全部流されたができるだけ前向きに生きた。そして、会社も再建、地元の復興に参加した。津波の教訓を伝える語り部として全国・世界をまわり、避難の重要性と最後まであきらめない大切さを伝えている。図4は地元の小学校で児童に浮いて救助を待つ方法を教える現在の志摩子の姿である。

図4 小学校でのういてまて実技指導の様子(主催小学校提供)
図4 小学校でのういてまて実技指導の様子(主催小学校提供)
水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授

ういてまて。救助技術がどんなに優れていても、要救助者が浮いて呼吸を確保できなければ水難からの生還は難しい。要救助側の命を守る考え方が「ういてまて」です。浮き輪を使おうが救命胴衣を着装してようが単純な背浮きであろうが、浮いて呼吸を確保し救助を待てた人が水難事故から生還できます。水難学者であると同時に工学者(材料工学)です。水難事故・偽装事件の解析実績多数。風呂から海まで水や雪氷にまつわる事故・事件、津波大雨災害、船舶事故、工学的要素があればなおさらのこのような話題を実験・現場第一主義に徹し提供していきます。オーサー大賞2021受賞。講演会・取材承ります。連絡先 jimu@uitemate.jp

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