水路をコンクリートで固めよう、地方病と人々の戦い
人類の歴史は病気との戦いの歴史と言っても過言ではありません。
日本においても甲府盆地にて地方病が蔓延しており、地方病との戦いは山梨県の歴史に大きな比重を占めているのです。
この記事では地方病との戦いの軌跡について引き続き紹介していきます。
殺貝剤の開発
1944年末から1945年にかけて、フィリピンのレイテ島で約1,700名のアメリカ兵が高熱や下痢を発症しました。
当初はマラリアと疑われましたが、糞便検査の結果、日本住血吸虫症であることが判明したのです。
この感染症は日本で発見されたもので、米軍の保健衛生体制の誇り高いアメリカにとって大きな不覚でした。
このフィリピンでの経験から、アメリカは甲府盆地で流行する地方病に関心を持ち、1947年にGHQは山梨県に衛生部隊を派遣します。
甲府駅構内に臨時の研究所を設置し、地方病の調査研究を行いました。
研究所では米軍が持ち込んだ薬品をテストし、有機塩素化合物のペンタクロロフェノール(Na-PCP)が効果的な殺貝剤として開発されました。
この殺貝剤は主に農民たちによって散布され、一定の効果を上げたのです。
しかし1965年に薬剤が流入し、ニシキゴイ7,000匹が死ぬ事故が発生し、環境への影響が問題となりました。
その後、環境に配慮したユリミンが代替薬剤として導入されましたが、製造中止に追い込まれ、1976年からはフェブロールジクロロ・ブロモフェノール・ナトリウム塩(通称B2)が使用されました。
1960年から1987年の間に、Na-PCPやユリミン、B2が甲府盆地のミヤイリガイ生息地に散布され、地方病の撲滅に向けた取り組みが続けられたのです。
水路のコンクリート化
1936年、甲府盆地でミヤイリガイの生態を観察した生物学者・岩田正俊は、その貝が緩やかな流れの水田や水路周辺に生息する特性を突き、用水路をコンクリート化し直線化することで生息環境を悪化させる方法を提唱しました。
しかし、当時のセメントの高価さから、盆地全域でのコンクリート化は現実的ではなかったのです。
その後、九州大学の岡部浩洋と岩田繁男が佐賀県旭村で行った実験により、コンクリート用水路でのミヤイリガイの産卵孵化率が極端に低いことが確認され、この方法の有効性が実証されました。
この成果を受け、寄生虫学者・小宮義孝が各機関にコンクリート化を推進します。
山梨県でも県職員・佐々木孝の主導で、1948年に中巨摩郡飯野村(現:南アルプス市)で試験的に用水路のコンクリート化が始まったのです。
初期の試験区間はわずか814メートルでしたが、その効果は翌年に検証されました。結果、コンクリート化しても流速が十分でなければ土砂や枯葉が堆積し、ミヤイリガイの生息を許してしまうことが明らかとなり、定期的なメンテナンスの重要性が指摘されたのです。
しかし、適切な流量と流速が確保されたコンクリート水路では、ミヤイリガイが生息しにくいことも明確になりました。
コンクリート化の利点として、ミヤイリガイの埋没、流速による卵の流出、そして発見と消毒の容易さが挙げられます。
1950年には、実地検分によって流速1メートル以上の水路ではミヤイリガイが100%流出することが確認され、厚生省を通じて寄生虫病予防法に「溝渠のコンクリート化条文」が加えられたのです。
これにより、1956年からは国庫補助による大規模なコンクリート化事業が本格的に始まりました。
さらに、コンクリート化が難航していた国鉄用地内の溝渠についても、後に自由民主党副総裁となる金丸信がその政治力で各方面に働きかけ、工事の実現に至りました。
結果、甲府盆地を網羅する水路は全てコンクリートで塗り固められ、その総延長は1996年までに2,109キロメートルに達し、事業費は累計100億円を超えたのです。
この大規模な事業は、地方病撲滅のために行われた、かつてないほどの取り組みでした。