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“ジークフリード&ロイ”のジークフリードが死去。ひとつの時代の終わり

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
(写真:ロイター/アフロ)

 ラスベガスの大きな伝説が、ついに終わりを告げた。魔術師コンビ、ジークフリード&ロイのジークフリード・フィッシュバッカーが、アメリカ時間13日、亡くなったのである。フィッシュバッカーは、2日前に、膵臓がんを患っていることを発表したばかりだった。12時間に及ぶ手術を行った時にはすでにほかに広がっており、本人の希望で、残された日々を自宅で過ごしていたという。享年81歳。相棒のロイ・ホーンは、昨年5月、新型コロナの合併症で、75歳にしてひと足先にこの世を去っている。ホーンの死も、コロナ検査で陽性反応が出てから1週間後という、急なものだった。

 フィッシュバッカーは、1939年、ドイツのバイエルン州ローゼンハイム生まれ。8歳の時、ある店のショーウィンドウで手品の本を見かけたことがきっかけで魔術に夢中になり、10代で家を出て、イタリアのリゾートホテルで皿洗いやバーテンダーをしながら魔術のショーをするようになる。やがて豪華クルーズ船にマジシャンとして雇われることになり、その船でウエイターとして働いていた、やはりドイツ出身のホーンと出会った。第二次大戦で父を失い、動物に心を癒されて育ったホーンは、フィッシュバッカーに「うさぎが消えるトリックをやる人はたくさんいても、チーターが消えるというのは誰にもできないよね」と言う。それに対してフィッシュバッカーは「魔術を使えば何だってできる」と答え、そこから、ふたりの看板となる、大きな動物を使った出し物が生まれることになった。

写真:REX/アフロ

 その後、ふたりはヨーロッパのナイトクラブを巡業。それがラスベガスのプロデューサーの目にとまり、アメリカ進出につながった。コンビは、スターダスト、ニュー・フロンティアなどのカジノで徐々に人気を高めていき、1990年からミラージュを拠点とするようになる。白い虎や煙、ライトを駆使した派手なショーは、ラスベガスを訪れた観光客にとって「絶対に見るべきもの」となり、彼らの名前は世界規模で広まって行った。しかし、2003年10月、ショーの途中、ホーンがマンテコアという名の白い虎に攻撃されて大怪我をし、ふたりのショーは突然の終わりを迎えてしまう。それまでに、コンビはミラージュだけでもおよそ5,000回の公演をし、1,000万人を動員した。ミラージュ以前の公演も含め、2001年までに彼らが売り上げた総額は10億ドルにのぼると言われる。

 ホーンはその後、長いリハビリテーションを経て再び歩けるようになり、コンビは2009年、チャリティ目的で最後の公演を行った。翌年、ふたりは引退を宣言している。

 フィッシュバッカーの死を受けて、ミラージュを傘下にもつMGMリゾーツは、「ジークフリード・フィッシュバッカーの死は、ひとつの時代の終わりを意味する」とツイートした。それを受けて、ミラージュも、「ジークフリードとロイがどこかでまた一緒になって、一晩に2回の公演をやり、総立ちの拍手を受けている姿を想像してしまいます。天国でゆっくりお休みになってください」とツイートしている。やはりミラージュで長年ショーを行ってきたシルク・ドゥ・ソレイユも、「娯楽業界のほかの人たちとともに、私たちも、ジークフリード&ロイが達成した画期的なことに追悼を寄せます」とツイート。ジークフリード&ロイを何度もインタビューしたマリア・シュライヴァーは、「ジークフリード&ロイは自分たちがやっていることを愛していました。そして自分たちのショーに来てくれる人たちみんなを愛していました。このふたりみたいなコンビは、もう二度と現れないでしょう。彼らを知ることができて、見ることができて、拍手をすることができて、良かった。またふたりが一緒になれることを嬉しく思います」と追悼のメッセージを送った。

 ほかに、ジャッキー・ローゼン上院議員、歌手のダニー・オズモンド、ネバダ州クラーク郡などが、お悔やみのメッセージを寄せている。

 ご冥福をお祈りします。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「シュプール」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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