死の間際、豊臣秀吉が行った異常な終活。その深刻な理由とは
以前にも増して、終活の重要性が指摘されている。特に、家やマンションの処分は重要なようだ。豊臣秀吉は慶長3年(1598)8月に亡くなったが、死の間際には終活を行っていた。その涙ぐましい終活の模様を紹介することにしよう。
慶長3年(1598)以降、秀吉は病に伏せるようになった。老い先の短い秀吉にとって、もっとも気掛りなことは、幼い子の秀頼と豊臣家の行く末だった。
秀吉は将来のことを考え、対策に乗り出した。文禄4年(1595)7月、秀吉はのちに五大老となる大名(徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家)らに起請文を提出させた(「防府毛利報公会所蔵文書」)。
起請文によると、関東は家康が統治し、関西は輝元・隆景が統治するように定められている。すでに指摘されているように、秀吉は家康と輝元・隆景に政権の東西における地域支配を担わせるよう考えていた。
しかも、必ずどちらかが交代で在京するように義務づけられていた。長期間の在国を許さなかったのは、彼らが謀叛を企むことを牽制したものだろう。
秀吉が秀頼のことを五大老に繰り返し託したのは、秀頼が秀吉の実子でなかったからだという説がある。しかし、実子でないという説も疑わしく、考え方が不自然でもある。
秀吉は絶対的な権力者である自分が亡くなれば、何ら後ろ盾のない豊臣家は大変なことになると考えていた。家の存続を願う秀吉にすれば、実子であろうとなかろうと、五大老にすがりつくのがごく自然な行為だったのである。
利家・秀家に対しても、ほぼ同様の起請文を提出させた(「大坂城天守閣所蔵文書」)。利家と秀家は私事により下国してはいけないとし、家康らと同様に在京義務が課せられ、政権内部での統制を託された。
つまり、家康や輝元・隆景が豊臣政権の地方支配を委任されたのに対し、利家・秀家は政権内部の秩序維持を任されたといってもよいだろう。
秀吉は、これとは別に文禄4年(1595)8月に御掟を定めた(「周南市美術博物館寄託文書」など)。その内容は、大名間の縁組みにはあらかじめ許可を得ること、大名間で盟約を結ぶことを禁じることだった。
秀吉は、こうした行為が謀叛につながることを予想していたのである。秀吉の予想は的中し、その死後に家康が私婚を進めたのは有名な話である。
こうして、のちのことを諸大名に託した秀吉が亡くなったのは、同年8月18日のことだった。秀吉は涙ぐましいまでに諸大名にすがりついたが、それが見事に裏切られたのは、周知のとおりである。