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ぼくがいまヒロインを描く理由。真の意味での女性映画と震災後の物語を求めて

水上賢治映画ライター
越川道夫監督 筆者撮影

 昨秋から『夕陽のあと』と『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景Vol.1』が相次いで公開され、いまも全国をめぐっている越川道夫監督。これまで『アレノ』『海辺の生と死』『月子』『二十六夜待ち』と監督作を重ねてきた彼だが、作品には共通した題が浮かび上がる。それは「女性」に主眼が置かれているということだ。

 男性の監督ではあるが、男のひとりよがりでも、勝手な誇大妄想でも、へんな幻想でもない。ひとりの女性を、女性の偽りのない言葉や身体をもって描こうとしている。性差についての平等がある程度浸透した日本ではあるが、映画で描かれる、かつ求められる女性像はまだ男性目線主体といわざるえない。その中で、こうした試みをしている日本の男性監督はあまり見当たらない。キャラクター性や猟奇性に頼らない真の意味での女性映画を作り続けている稀有な監督といっていいかもしれない。また、そこからはいまだ知らず知らずのうちに男性上位で語られがちな物語の多い日本映画への反発も透けて見える。

とりわけ《性的》なことになったとき、男性の目線になってしまうのはどうか

 まず、いま女性を描く理由を越川監督はこう明かす。

「いわゆる男性的なマッチョさというものが、僕には理解できないんですよ。というか好きじゃないんだと思う。だからそういうものを日常的にあまり目に入れないように暮らしています。

 かつ、いわゆる体育会系的なノリ、たとえばいっしょに酒を呑んで徒党を組むといった感覚が僕の中に欠如しているんですよね。ないわけではないと思うんだけど、日本にも厳然とあるマチズモみたいなものが僕にはどうしても理解できない。面白いと思えないし、いいとも思えないんです。

 『二十六夜待ち』『アレノ』の音楽をやってくれた澁谷浩次さんにこう言われたんですよ。『越川さんの映画は、女はどこまでもモンスター化していき、男はどこまでも弱くなる』と。

 もうひとつは自分が映画を作る時に、男性性の欲求の中で女性がみられていくことに嫌悪感が強いんです。そのせいか、日本だけでなく映画を見ていると、女性の主体としての欲求とか感情みたいなことを度外視した表現になりがちだなと、感じることが多いんです。特にセックスを描いたときに。男性目線の中でいいようになっていないかと。とりわけ《性的》なことになったとき、男性の論理になってしまうのはどうかと考えています。

 だから、自分としてはそういった目線とは一線を引くというか。はっきりって、真逆にしないと気持ち悪いわけです。僕も男性ですから女性のことが実感を持って分かるわけではありせん。むしろ分からないと思っています、だからこそ、できるだけ女性に寄り添うように描いていく。すると必然的に、セックスを題材にした作品でも、いわゆる男性目線の作品とは違うものになっていくし、一つの女性像というものを描くことができるのではないかと思っています。女性に限りませんが、自分にとっての他者のことを想像し、寄り添っていくことは僕の映画作りにとって重要なことです。

 そこに監督でなくとも一貫した僕のものの見方があると思います。

 たとえばプロデュースをした映画『ゲゲゲの女房』も、女性サイドからみている。あえて水木しげるさんを主人公にしないで、奥さんのほうからみているわけです。

 たとえば戦争を描くのでも女性の側や、子どもの側から描くと、そこには別の形が見えてくると思っているんです。そういう別の地点に立たないと、他者性が見えてこない。僕にとってたぶん、女性も子どもも他者で、それをどうにか他者のまま理解することはできないだろうかと思っているのだと思います。

 日常的にも考えていることなんですけど、たとえばそこに花が咲いている。でも、それは僕らのために咲いているわけじゃない。花は自身のなんらかの理由のために咲いているわけですよ。それが描けないとダメじゃないかと。

 ようするにこっちに都合のいいようにしない。勝手にこういうものと断定しないというかな。それがそのものとして、どうしたら描きうるのかを考えています。

 それは自分のファシズムに対する嫌悪に根差しているかもしれません。もし、100人いて99人が賛成で、自分だけ反対だったら排除されるという恐怖。そうなったとき、ほうっておいてくれたらいいんだけど、ほうっといてくれないですよ。いまの社会をみても、同調圧力が強いと思います。そこに対する恐怖、嫌悪感と抵抗感が強いんです。

 だから僕は、何とか《そのもの》として描けないかって思うんです。不可能かもしれせんが、それでも」

『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景vol.1』 より  (C)2019キングレコード株式会社
『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景vol.1』 より  (C)2019キングレコード株式会社

『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景Vol.1』の主人公ユリは、先立たれた妻のことがまだ忘れられないでいる古本屋の店主トモの妻に収まる。いまの暮らしになにも不満はないが、どこか自分の所在もない。そんな中、自分と同じような哀しみを抱える夫の友人、リュウタと出会い惹かれ、逢瀬を重ねていく。いまの日本の社会の通念からみると、ふしだらに映るかもしれない。

「おそらくユリをそうみる人は多いでしょう。この映画に登場するユリもトモさんもリュウタも愚かかもしれません。人は幸せになろうとします。なろうとするけれど、それが愚かでないとはいえない。愚かでないからといって、幸せであるともいえない。女性は男性の都合で動いてるわけではありません。夫の思うがままにいるものでもない。もちろん、女性も男性の目を意識して、男性に良くしてあげようと気持ちがあるわけで、それは全然否定しません。そこにも女性の論理があるのだと思います」

わかりあえないことをそれほど恐れなくてもいいのではないか

 確かにユリはユリでしか存在しない。その心は誰にも縛ることはできない。でも、夫のトモも、惹かれていくリュウタもユリに理解を示しているようで、実は自分のいいようになる存在をどこかで求めている。だから、ユリの行動を理解できない。

「僕の描く女性の登場人物がさっき言われたように《モンスター》になぜ見えるのかと言うと、おそらく男性にはおおよそ理解できないからだと思います。でも、みてくれた女性は案外、自分とは違う人間だとは思っても《モンスター》だとは思っていないんじゃないか。女性のお客さんの感想から、そんな風に思っています。

 あと、なにかいま、なんでも語り合えて、話し合えれば、わかりあえる。逆になにか常時、コミュニケーションをとっていないと、わかりあえないといったことへの不安があると思うんですよ。すぐ既読にならないと不安になるとか。

 でも、わかりあえないことをそれほど恐れなくてもいいのではないかなと。わかりあえないことをそのまま引き受けていくことが重要なのではないかと思います。相手のことをわからないことは悲しむべきことではない。他者が分からないということは前提です。分からなければ共にいることができない、という考え方の外に出られないかと

 たとえば2歳児とか、わからないわけです。何言っているかわからないから、言葉でコミュニケーションを図ろうとすると余計に分からない。でも、僕たちは言葉だけでコミュニケーションをしているわけではありません。言葉でやりとりをしていても相手の表情や仕草から読み取れる部分が大きいと思うのです。言葉は重要ですが、トータルとしての身体表現の一部に過ぎない。そのような考え方が作品や芝居づくり出ているのかもしれません」

『夕陽のあと』 より (C)2019長島大陸映画実行委員会
『夕陽のあと』 より (C)2019長島大陸映画実行委員会

 このスタンスは、母親であることを一度はあきらめた女性と、母親になることを決意した女性、いわゆる生みの親と育ての親の交錯を描いた『夕陽のあと』にもみてとれる。

「作品のひとつのテーマは親が子どもを自分の従属物としていないかというものです。そこから親と子どもとの関係性を描いています。

 その背景には、親の尺度の中に子どもの個があるのかという疑問を、いまの社会をみているとついつい考えてしまったところがあります。親のへんなエゴやセンチメンタリズムを子どもに押し付けていないか。子どもとの向き合い方について、親が子どもの気持ちをどこまで尊重しているかの話でもあります。

 この映画の中でも二人の母親は最終的に、子供である豊和を親の従属物であるという考え方の外に出ようとします。これは決してわかり合うことのできない他者であるお互いに対して寛容になり、分からないまでも寄り添おうとした結果であると思います。他者のあり方を想像し、寄り添おうとすることは、今の社会の中でとても難しいかもしれないけど大切なことだと思うんです」

 こういう背景があるから、越川作品には、いままでにないヒロインが登場しているのかもしれない。一方で、本人は女性を主人公にする理由がもうひとつあると明かす。

「そもそもで言うと、僕は自分を映画作家というより、職業監督として把握しています。なので、こういう企画で撮ってくれとか、この人で撮ってくれということが嫌いじゃない。むしろ、この人と一緒に何をやるのか、それは男女関係なく考えるのが好きなんです。

 それは、僕の監督としての師匠にあたる澤井信一郎監督の影響かもしれません。彼はアイドル映画を多く撮りました。この企画をこの女優で、といったところから映画作りがはじまるわけです。企画ありきから、いい映画を作っていくのを僕は見てきたわけです。それは相米慎二監督もそうだったし、当時のロマンポルノの監督もそうだったのではないでしょうか。だから、こういう企画でとか、この人で撮るとかあまり抵抗ないんです。

 その影響もあってか、銀幕のヒロインっていう言い方がありますけど、映画って女優のもんだって、どっかで僕は思っているところがあります。映画はヒロインの美しさ、それは見た目の美しさだけじゃなくて、その女優が光り輝く瞬間を見にくるものだと思ってるんです。そういう映画にしたい気持ちがいつもありました。

 だから僕の映画表現がどうこうというよりも、『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景Vol.1』だったら瀬戸(かほ)さん、『夕陽のあと』だったら、貫地谷(しほり)さん、山田(真歩)さん、過去作だったら、満島(ひかり)さんなど、このヒロインたちが美しく魅力的に映っている。これが映画としてのまず大前提だと思っているところがあるかもしれません」

徹底して俳優のことを考える

 そういう意味で、実は正統派のヒロイン映画を作っているといっていい。

「相米慎二監督や澤井信一郎監督たちが、自分たちの作家性とかよりも、このヒロインからどう魅力を引き出して、ひとりの女優としてひとり立ちさせていくか、ということを第一に考えて映画を撮っていたということを、過去のインタビューなどを読んでいると感じることがあります。そこなんですよね。澤井さんは、自分がその女優に憎まれたって、彼女たちが映画の中で輝いていればいいんだ、と話してくれたことがありますが、そのくらい徹底して俳優のことを考えて映画を撮る、ということなんだと思います。僕もそうでありたいと思っています。

 だから『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景Vol.1』はユリと男2人の話ではあるけれども、やはり瀬戸かほの映画であって、瀬戸かほが俳優として旅だってくれたらと思ったし、『夕陽のあと』も貫地谷(しほり)さん、山田(真歩)さんが魅力的に見えることがとても大事なことだと思っていました」

『夕陽のあと』より  (C)2019長島大陸映画実行委員会
『夕陽のあと』より  (C)2019長島大陸映画実行委員会

 だからこそ、その女優のいいところだけを撮るようなことはしない。

「悪い意味でコマーシャル的なというのでしょうか、映画はそういう意味の《美》だけにフォーカスしちゃダメなんだと思います。《美しさ》という価値の中だけに女性を閉じ込めてはダメで。たとえば『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景Vol.1』で瀬戸さんが泣きながら鼻水を垂らしているところは、僕は彼女を美しいと思います。単に美しいってわけじゃない。何だろう、生きているということのその煌めきがそこには存在していて、そこに触れた感じがしました。だから、そのような美しさが撮れない、引き出せなかったら、ダメだなあと僕自身に関しては思います。

 人が必死になっていて生きている表情って、どういう顔をしていても美しいと思うんです。それがその人の輝きだと思うんです」

 『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景vol.1』 より (C)2019キングレコード株式会社
『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景vol.1』 より (C)2019キングレコード株式会社

 ただ、そういう場を設定はするが、女優をコントロールするようなことは一切しない。

「俳優をどこまでも信用したいと思っています。もっというとカメラやスタッフもひとりひとりだ表現者としてそこにいて、それぞれの表現を付き合わせて映画を作っているということを現場的に考えたい。もちろんいろいろと注文は出します。でも、それはほとんどの場合、彼らが僕のコントロール下にならないために演出をしているのだと思います。だから、越川はコントロールしないって評論家の人に怒られたりするんだけど(笑)。しないじゃないんくて、やっぱりしたくないんです。

 演出し、台本も書くけど、だいたいがその通りになっていない。

 たとえば『夕陽のあと』で、五月が東京へ行って、茜がかつていた場所を見るというシーンありますけど、台本では2行。それをどう芝居にするかと俳優たちと作業をしていくと、ああしたある程度長尺のシーンになっていくんです。台本の行間にあるものを芝居として顕在化したい。そこに興味があるのだと思います。

 現場で作業する中で、作品にはその作品が伸びたい方向があるということが分かります。それを僕は妨げない。それをむしろどこまでも伸ばしていきたいと思います。だから現場で発見するということが、僕にとっては重要です、もしかしたら、いまどきの映画作りとは逆行しているのかもしれないけど。

 僕が机上で想像していたことより、現場でみんなと作業をしながら有機的に作品が伸びていく、それを大事にしたいと思っています」

東日本大震災後、ずっと考えていること

 もうひとつ。映画作りにおいてずっと考えていることがある。

「ずっと考えていたことではあるんですけど、東日本大震災で自分の中で明確になったことがあるんです。当時、僕はプロデューサーでしたけど、幾つかの企画を捨てたんです。震災以降に作るべきものか、と考えたとき、それ以前にたてた企画はほとんど残らなかった。

 プロデュースをした2013年の『楽隊のうさぎ』も震災を挟んでがらっと形を変えました。震災の時に考えたこと、震災以後ということにこだわっています。『海辺の生と死』を撮ってても、『愛の小さな歴史』を『夕陽のあと』を撮ってても、そのことをずーっと考えてるんです。それはすごく単純で、《普通の生活》というものは、すごく努力しないと保つことができないということです。ちょっとのことでそれはガラガラ崩れてしまう。普通の生活を続けていくということが、いかに難しく大切かということなんです。

 東日本大震災後に、もうすごい大きなことが成就するような物語とか、熾烈な戦いを勝ち抜いていくとか、そういう夢見がちな映画を自分は作れないと思った。

 もともとそういう作品は好きじゃなかったかもしれませんが、東日本大震災以後はもうそういう地点には自分は立てないと思いました。それより市井の人々の映画を撮りたい。たとえば僕が、たまたま隣り合わせた人に話をきいたとすると、おおよその人は『私の人生なんてつまらないですよ』と答えるかもしれません。でも、つまらなくても、それはその人にとってはかけがえのない、歩んできた人生です。そこにつまらないか、つまらなくないかの尺度なんてない。そういう人の人生が、ちゃんと映画になることをしたいと思います。『ジャパン・アズ・ナンバーワンを再び』なんて、声高に叫ぶような人物や、勝ち負けがすべてと考えることがいい方向にならないと思うからです。

 敗者とか勝者とか、そういうものの見方の外に出ること。いかに『生きる』」ことを映画にするかっていうことに僕は賭けたいと思います。その人の小さくともかけがえのない『生』がちゃんと映画になるのか、表現として立ち上がってくるのかしか、僕には興味が持てないんです」

『夕陽のあと』

全国順次公開中

『愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景vol.1』

全国順次公開中

映画ライター

レコード会社、雑誌編集などを経てフリーのライターに。 現在、テレビ雑誌やウェブ媒体で、監督や俳優などのインタビューおよび作品レビュー記事を執筆中。2010~13年、<PFF(ぴあフィルムフェスティバル)>のセレクション・メンバー、2015、2017年には<山形国際ドキュメンタリー映画祭>コンペティション部門の予備選考委員、2018年、2019年と<SSFF&ASIA>のノンフィクション部門の審査委員を務めた。

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