戦国時代に側室を持たず正室一筋だった武将5選
戦国大名たちは自分の死後に家を残すために『お世継ぎ』を作るのも大きな使命でした。しかし、どんな名家でもなかなか世継ぎに恵まれないこともあります。
そんな時は養子を迎えたり、姫に婿養子を取らせお家存続を図ったりしていました。また、正室以外の女性(側室)をむかえて自分の子どもを産ませ、男子であれば次期当主にすることもあります。
この時代、当主たるもの側室を持つのは当たり前で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康も多くの側室を持っていました。しかし、さまざまな理由から側室を持たない硬派な武将たちもいました。
そこで今回は側室を持たなかったとされる正室一筋だった武将達を紹介します。
三国同盟で結ばれた武田義信と嶺松院
武田信玄の嫡男である義信は、今川義元の娘の嶺松院を正室に迎えました。義元の妻が武田義信の祖父・信虎の娘であった事から、義信と嶺松院はいとこ同士にあたります。
2人は政略結婚でしたが、仲睦まじい夫婦だったようです。
一女をもうけますが今川義元が桶狭間で討たれ信玄が今川家を見限り、義信と信玄が対立する事件が勃発。その結果、義信が自害すると嶺松院は兄・今川氏真に送られ、その後は出家して人生を全うしました。
織田信長は裏切ったが妻は裏切らない明智光秀
美濃の国衆時代に妻木氏の娘・煕子を妻にしたのが明智光秀。
光秀夫婦には三男四女が生まれ、その中には細川ガラシャ(お玉)がいます。俗説では側室を含め六男七女が存在したとも言われていますが、一般的には側室がいないというのが通説です。
煕子には光秀流浪時代に黒髪を売ってお金を工面した賢妻エピソードがあり、苦労を共にし夫婦の絆は深いと思われます。1576年に残念ながら死去してしまいますが、同じころに光秀が重症になるほどに寝込んだことから看病疲れが原因かもしれません。
子どもはいないが生涯側室を持たなかった小早川隆景
隆景の正室は小早川家の娘・問田大方と呼ばれる女性でした。
二人には子どもができませんでしたが、隆景は生涯側室を迎えることはありませんでした。隆景の養子となった秀秋も子がなく没したため小早川家は改易しますが、問田大方は1619年まで生き続けました。
毛利隆元・吉川元春などの兄弟も正室以外持たなかったことから、毛利三兄弟は一途だったのかもしれません。一方で父・元就はしっかりと側室の存在がありました。
伊達輝宗は政宗の母・義姫を迎える
伊達輝宗は最上義守の娘・義姫と婚姻し嫡男・政宗をもうけます。さらに、弟・小次郎も生まれ、二男二女を産みますが女児は2人とも早世しました。
伊達家はもともと婚姻外交によって勢力を伸ばしてきた大名です。複雑化した婚姻関係から、奥羽では常に争いが絶えませんでした。こうした状況に疲れ果てていたのかは分かりませんが、輝宗は側室を持つことはありませんでした。
山内一豊の妻は内助の功・千代
山内一豊が織田家臣時代の秀吉の下で働いているときに千代と結婚。姫をもうけますが、天正大地震で乳母と共に城の下敷きになり死去します。
以降、二人の間には子は恵まれませんでしたが一豊は側室を迎えませんでした。
一豊の妻・千代には良妻エピソードが多数あり、織田家の馬揃えで千代のへそくりで購入した良馬が信長の目に留まり加増された話などが有名です。こうした千代のエピソードは明治から第二次大戦が終わるまでの女子教育に採用され良妻賢母の鏡とされてきました。
番外・戦国一の恐妻家・徳川秀忠
恐妻家と言えば源頼朝や足利義政に次いで徳川秀忠の名前が私は浮かんできます。
浅井三姉妹の三女・お江を娶り、嫡子・三代将軍・家光を産みました。
最終的にニ男五女に恵まれるが最初の4人が全て女子だったので、周りから「側室を持ってはどうか?」と言われたようですが、公式に側室を持つことはありませんでした。
恐妻家で有名な秀忠はお江の尻に敷かれていたとされています。そのため、側室を持たなかったというより、持てなかったというのが本当の理由なのかもしれません。実際に女中にお手付きをしてご落胤とされている保科正之がいるのでネタ枠として番外としました。
ほかにも黒田官兵衛や石田三成などが側室を持たなかったと言われています。
正室一筋だった武将に共通するのが夫婦仲が良いエピソードが残っているように思います。調べれば、まだたくさんの武将を見つけることができるかもしれませんが、今回は長くなるのでこれまでにしておきましょう。