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牛馬すら口にした! 羽柴秀吉による容赦ない三木城の兵糧攻め

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、三木城の攻防が割愛されたが、その地獄のような兵糧攻めを取り上げよう。つい最近、『新三木市史』古代・中世史料編が刊行され、その全貌が明らかになった。

 天正6年(1578)2月、別所長治は突如として織田信長に反旗を翻した。近年の新出史料によると、長治は信長から派遣された羽柴(豊臣)秀吉と何らかの理由により揉めていたらしい。以後、長治は三木城(兵庫県三木市)に籠り、徹底抗戦を挑んだ。

 当初、戦いは長治が優勢に進めたが、少しずつ形成は秀吉に有利に展開した。秀吉は三木城の周囲に付城を築き、兵糧の搬入ルートを断ち、長期の戦いを挑んだのだ。とはいえ、三木城内に大量の兵糧が備蓄されたとは思えず、何らかの方法で搬入されたと考えられる。

 しかし、秀吉の兵糧攻めは、徐々に効いていった。三木城の城兵は兵糧不足により、飢えに苦しんだのである。城兵が口にしたのは、牛馬だった。当時、牛や馬は貴重かつ高価なものなので、口にするのは稀だった。しかし、あまりの空腹に耐えかねたのである。

 やがて、牛馬がいなくなると、今度は草などを口にした。草などがなくなると、城内の壁土までも食べたというから驚きである。それどころか、最後は餓死した人の肉までも食らったという。こうなったら、もう別所氏の勝つ見込みはゼロに等しかった。

 天正8年(1580)1月6日になると、情勢は一変した。ここまで別所氏は奮闘していたが、秀吉は三木城から煙が出ないことをおかしいと感じた。煙が出ないのは食事を作っておらず、将兵が弱り切っていると考え、一気に攻勢に転じたのである。

 同年1月17日、秀吉方の重棟(長治の伯父)は、長治以下、一族の賀相、友之に切腹を促し、交換条件として城兵を助命すると伝えた。秀吉も別所一族の降参を了承し、いよいよ一族は切腹することになったのである。

 別所一族の切腹の現場は、凄惨なものだった。長治は3歳の子を膝の上で刺し殺し、自らの手で女房も殺害した。長治は城兵の助命を改めて願うと、腹を十文字に掻き切った。介錯は家臣の三宅治職が務めたが、長治の内臓は露出したと伝わる。。

 その後、別所彦進以下、その女房、賀相の女房らも自害して果てた。長治ら別所一族の潔い散り方は、後世になっても伝えられ、今も地元の人によって顕彰されている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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