父親が違うとの噂が絶えない3人の武将とは?
DNA鑑定などが発達した現在、おおむね父親が誰であるかは特定できるようだ。前近代ではそのような検査方法がなく、父親が違うとの噂が絶えない3人の武将がいたので、取り上げることにしよう。
◎平清盛(1118~1181)
平清盛は、忠盛の子として誕生した。語り本系の『平家物語』によると、白河法皇と祇園女御が結ばれて懐妊し、忠盛に祇園女御が下賜されたあとで、清盛が誕生したという。この説はユニークではあるが、今となっては疑わしいとされた説である。
そもそも『平家物語』は文学作品であり、成立は鎌倉時代なので、歴史史料として全面的に信を置くことはできない。また、当時の祇園女御は40歳を越えていたと考えられ、当時としては高齢なので、妊娠・出産の可能性は低いとされている。
◎斎藤義龍(1529~1561)
斎藤義龍は、道三の子として誕生した。『美濃国諸旧記』などによると、義龍は土岐頼芸と愛妾の深芳野の子だったといわれている。道三は深芳野が懐妊したと知りながらも、頼芸に懇願してもらい受け、義龍を出産したというのである。
しかし、深芳野という女性を史料で確認することはできず、後世になって創作されたのではないかと指摘されている。したがって、義龍が頼芸の子だったという説は、否定されている。義龍の母は、稲葉良通(一鉄)の妹である可能性が高いという。
◎豊臣秀頼(1593~1615)
豊臣秀頼は、秀吉の子として誕生した。しかし、秀頼の本当の父については、大野治長、石田三成、名古屋山三郎らの名前が取り沙汰された。というのも、秀吉は多くの側室を抱えていたにもかかわらず、なかなか実子に恵まれなかったので、疑われたのだろう。
近年では、秀頼は秀吉の実子ではなく、淀殿と陰陽師の子だったという説も提起された。淀殿が懐妊した時期、ちょうど秀吉は名護屋城にいたので、淀殿との間の子ではないというのだ。しかし、明確な根拠があるわけではなく、疑わしいと考えられる。