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慶大の四番・清原正吾に聞いた6年間のブランク。他競技を経験したから「いま」がある

上原伸一ノンフィクションライター
慶應義塾大学の清原正吾。中学、高校では野球から離れていた(筆者撮影)

少年時代から頭抜けていた長打力

大学で野球をしている選手は、その多くが子供の頃から「野球一筋」だ。野球だけではないかもしれない。他競技に目を向けても、高いレベルに達しているアスリートはたいてい「一筋」である。

こうしたなか、中学ではバレーボール部、高校ではアメリカンフットボール部と、異色の経歴を持つのが、慶應義塾大学の清原正吾(4年、慶應)だ。

6年間、野球から離れていたが、今春のリーグ戦では、開幕試合から「四番」を任されている。慶大は早稲田大学と同じ勝ち点、勝率で首位を走っており、清原は打率、打点ともにチームトップである(5月14日時点)。

清原はこう話す。

「6年間のブランクがなかったら…と思ったことはありません。その時、その時が楽しかったですし、バレーもアメフトも一番上手くなりたいと、取り組んでました」

清原は慶應義塾幼稚舎3年の時、オール麻布という学童軟式チームで野球を始めた。東京・港区を拠点とするオール麻布は強豪で、全国大会に何度も出場している。ここで4年時から中心選手になると、高学年では四番を打ち、一塁か二塁を守った。

当時から、長打力はずば抜けていたようだ。「ホームランはかなり打ってましたね」。両翼60m、中堅75mのある少年野球場での試合では「場外弾」を飛ばしたという。

ちなみに、この時も手にしていたのは、一般的な金属製バットだった。

「(飛距離が伸びるといわれる)「高反発」のバットは1度も使ったことはありません。そこはこだわってました」

学童野球で活躍していた清原だったが、中学に進むタイミングで野球から離れた。

「大きな理由は父親(元オリックスの清原和博氏。西武、巨人でもプレーし、歴代5位の通算525本塁打を記録した)の存在です。どうしても「清原の長男」として見られ、重圧があるなかで打たなければならないので…そこから離れたくなったんです。それと(3つの選択肢がある)慶應義塾の附属中のどこに進むか、進路で悩んでいたのも重なりまして」

清原は今春の開幕戦から「四番」に座り、持ち味の長打力も発揮している(写真提供 慶應義塾体育会野球部)
清原は今春の開幕戦から「四番」に座り、持ち味の長打力も発揮している(写真提供 慶應義塾体育会野球部)

初心者として活かした「もの真似」の才能

慶應義塾普通部に進学すると、清原が選んだのはバレーボールだった。「友人から誘ってもらったんです。何かのスポーツはしたかったので、やってみようと」。全くの初心者として始め、「学校はとにかく勉強が厳しかった」が、やるからにはと、すぐに向上心に火がついた。

バレーでも活かされたのは、清原が得意とする「もの真似」だった。

「僕は自分ができないことは、まず真似から入ります。できる人の動作を見て、イメージを頭に落とし込み、それを体で表現できるように練習を繰り返すんです」

真似ができるということは、観察力も優れているのだろう。この能力は、アメフトでも上達の助けになったようだ。

清原はバレー部時代、攻撃の要であるアタッカーを務めた。スパイク練習をすることで、背筋、腹筋、上腕筋、そして手首など、野球でも必要とされる筋力を鍛えられたところもあっただろう。ただ、背筋は幼稚舎時代から強かったようだ。「体力測定ではいつも学年の上位でした」

アメフトでは神奈川選抜でもプレー

転機が訪れたのは慶應義塾普通部3年の秋。身体能力の高さを見込まれた清原は、慶應義塾の附属中学のメンバーで構成するフラッグフットボールチーム(慶應ジュニア・ユニコーンズ)の一員になった。フラッグフットボールは、アメフトの「タックル」の代わりに、プレーヤーの両腰につけた「フラッグ」を取る競技である。

東日本代表として「NFLフラッグフットボール日本選手権大会」に出場すると、中学生カテゴリーで優勝。日本一に貢献できた喜びを味わった。

「嬉しかったですね。周りから高校でもやったほうがいい、と勧められ、慶應義塾高ではアメリカンフットボール部に入りました」

アメフトに転向後も妥協することなく、競技に打ち込んだ。ウエイトトレーニングにも熱心に励んだという。「コンタクトスポーツですからね。体を大きくしないと当たり負けしてしまうんです。高校で14、5キロは増えました」。現在、186センチ90キロ。清原は東京六大学全体のなかでも堂々たる体躯をしている。

慶應義塾高のアメフト部は1935年創部と長い歴史を誇り、過去には高校日本一にもなっている強豪だ。部員数も多いが、清原は2年生でレギュラーの座をつかむ。ポジションはタイトエンド。「分かりやすく言いますと、攻撃でのオールラウンダーです。ブロックもパスプレーもやりますし、ボールを持って走ることもあります」。アメフトの万能型の選手が任されるポジションである。

3年時は神奈川選抜チームの一員にもなり、選抜チーム同士が戦う大会では、2大会連続で最優秀選手賞を獲得したという。「雑誌でも紹介してもらったんです」。清原は少し誇らしげに笑顔を見せる。あのままアメフトを続けていてくれたら…そう思っているアメフト関係者も少なくないかもしれない。

ラストイヤーの活躍を証としたい

アメフトのボールは、野球経験者であっても、なかなか上手く投げられないと聞く。だが、清原は得意だったという。「先輩の投げ方を真似していたら、すぐに投げられるようになりました」

アメフトのボールを投げていたことは、野球でのスローイングの正確性につながったようだ。とかく打撃に注目が集まりがちだが、清原は守備も堅実で、送球も安定している。慶大の堀井哲也監督は「アメフトでいろいろな体勢から上体を柔らかく使って投げる動作をしていたからでは」と見ている。

他にも野球につながっていることがある。アメフトではほとんど真直ぐには走らず、切り返しの動作も多いが、「それで培った足さばきも一塁でのフィールディングに活かされていると思います」(清原)

アメフトで培った足さばきも一塁でのフィールディングに活かされている(写真提供 慶應義塾体育会野球部)
アメフトで培った足さばきも一塁でのフィールディングに活かされている(写真提供 慶應義塾体育会野球部)

清原はアメフトを始めてから、常に頭を使うようにもなったという。

「アメフトはフィジカル的に激しいスポーツですが、頭脳も求められます。サインもそれこそ、何百通りとあるので。ですから、体を目一杯使いつつも、このサインだから、こういうアジャストをしようと、いつも先のことを考えてました。試合でも練習でも常に考えるのは、野球に戻ってからも習慣になってますね」

アメフトでは投手に向かっていく精神的な強さも養われたようだ。

「基本的にはチームプレーの競技なんですが、アメフトは役割分担が明確な分、1対1のスポーツでもあるんです。相手のこの選手をかわさないと、と決めたら、立ち向かっていかなければならない。その経験が投手に向かっていく姿勢、どんな球種でも向かっていく姿勢を作ってくれた気がします」

清原には学生時代に果たしたい大きな目標が2つある。1つは(自分が主力として)早大に勝ってリーグ優勝し、大学日本一になることだ。

もう1つは、中学や高校で野球をやっていなくても、他のスポーツをした経験が力になると、自らの活躍で証明することだという。

「まだそこまでの結果は残せてませんが…スポーツがシーズン制の米国のように、いろいろな競技をする選手が出て来るきっかけになりたいです」

6年間のブランクがありながら、慶大の四番を担っているだけでも称賛に値するが、清原はもっと高いところを目指している。

次回の記事では、清原がいかに6年間のブランクを埋めていったか、その一端をお伝えしたい。                                       (文中 敬称略)

ノンフィクションライター

Shinichi Uehara/1962年東京生まれ。外資系スポーツメーカーに8年間在籍後、PR代理店を経て、2001年からフリーランスのライターになる。これまで活動のメインとする野球では、アマチュア野球のカテゴリーを幅広く取材。現在はベースボール・マガジン社の「週刊ベースボール」、「大学野球」、「高校野球マガジン」などの専門誌の他、Webメディアでは朝日新聞「4years.」、「NumberWeb」、「スポーツナビ」、「現代ビジネス」などに寄稿している。

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