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欧州「忘れられる権利」判決の行方

小林恭子ジャーナリスト

月刊誌「メディア展望」4月号の筆者原稿に補足しました。数字などが原稿を書いた当時の3月中旬のものであることにご留意ください。)

「忘れられる権利」(right to be forgotten)という表現が、このところ大きな注目を浴びている。

インターネットが普及した現在、いったんネット上に情報がアップロードされてしまうと完全に削除することは困難だ。「忘れてくれない」のがネットの特質とも言える。しかし、個人情報やプライバシー保護の観点から何らかの是正措置があるべきという声が高まってきた。

ネット上の個人情報の保護について画期的な判決が出たのは、昨年5月だ。欧州連合(EU)の最高裁判所となる欧州司法裁判所(CJEU)が米検索大手グーグルに対し、EU市民の過去の個人情報へのリンクを検索結果に表示しないように命じる判決を下したのである。

「忘れられる権利」をめぐって欧州の市民がグーグルに初めて勝訴したのは2011年と言われている。フランスの女性が若いときに撮影したヌード写真が30万以上のホームページにコピーされたことから、グーグルを相手取り、写真の削除を求めて訴訟を起こした一件である。

昨年5月のCJEUの判断は、欧州内で市民に忘れられる権利を保障する典型的な判例となったこと、グーグルが包括的な取り組みを開始したという点で非常に大きな動きだ。

本稿ではその経緯と余波を記してみたい。

スペイン人男性による訴え

もともとの話は1998年にさかのぼる。スペインの新聞「バンガルディア」は同国人の男性が社会保障費を未払いし、回収のために不動産を競売にしたという記事を掲載した。その後、男性は未払い分を処理したが、この新聞のウェブサイトには当時の記事が掲載され続けた。このため、男性がグーグル検索で自分の名前を入力すると、十数年前の未払い問題が表示結果に上ってきた。

2010年、男性はバンガルディア紙とグーグル・スペイン社及び米本社に対し情報の削除を求める訴えをスペインのデータ保護局に起こした。保護局はバンガルディア紙の報道は「合法」として男性の削除願いを退けた。しかし、グーグルに対しては表示結果に出さないように命じた。これを不服としたグーグルがスペインの高裁に控訴し、高裁はCJEUに判断をゆだねた。昨年5月13日、CJEUはグーグルに対し該当する個人情報を表示しないように命じた。

CJEUはグーグルが「データの管理者」の役目を果たしている、と見る。グーグルには市民の基本的権利、自由、特にプライバシーを維持する権利を守るというEUデータ保護指令(1995年発効)に基づいた「責務を順守する必要」があり、個人が不都合と考える自分についての情報を表示結果に出さないようにするべきという判断を示した。その一方で、利用者の知る権利とプライバシー保護には「公正なバランス」が必要で、公人の場合は利用者の知る権利が優先されるとした。

2012年には、欧州委員会が保護指令のアップデート版とも言える「データ保護規則案」を提案。これは非欧州企業であってもEUのデータ保護規則などに従う必要があること、情報の削除を申請する個人ではなく情報を発信する企業側に立証責任を持たせることなどを含む。今年3月13日、EU加盟国はいくつかの修正を加え、規則案を採択した。

日本では昨年10月、東京地方裁判所がグーグルに対して検索結果の削除を命じる仮処分判断を発令している。検索結果自体の削除を裁判所が命じた、日本初の事件と言われている。

グーグルの対応

グーグルは、昨年5月29日から削除申請の受付を開始した。自社の「透明性レポート」のサイトで結果を公開している(毎日更新)。

3月14日時点では削除申請総数が欧州全体で23万1316件、削除のために評価したURLは83万5940に達した。評価したURLの中で59・5%が削除された(表示結果に示されないようになった)。

注意したいのは、こうした数字はあくまでEUの司法判断を受けての関連削除である点だ。どの大手検索エンジンも一部の情報については表示結果に出ないようにする作業を常時行っている。違法行為につながるような情報(著作権物の違法ダウンロード、児童ポルノに関わる情報・画像など)や性犯罪の犠牲者の個人情報などがこれに入る。

司法裁判所による「忘れられる権利」の判断は果たしてどこまで及ぶべきだろうか。

グーグル側は欧州で利用される検索エンジンのサービス(例えばフランスのgoogle.fraなど)に限定したのに対し、昨年11月、EUの個人情報保護規制当局で作る調査委員会は、対象を全世界での検索エンジンに採用することを求めた。

しかし、2月6日に発表された、グーグルの「諮問委員会」による報告書によれば、グーグルは今後もこれまでの方針を変えないようだ。

諮問委員会はグーグルが司法判断を実際に運用する際の指針作りのために設置された。ドイツの元法相、ネットサイトの創始者、学者などグーグル側が選出した専門家8人が委員として参加し、委員会の招集者としてグーグルの最高法務責任者とエリック・シュミット会長が名を連ねた。

報告書はリンクを表示結果に出さないようにする行為を「リストからの削除(delisting)」と表記している。ここでの「削除」とは情報を掲載するウェブサイト自体を削除するのではなく、また情報自体を削除するのでもなく、「表示結果に出さない」という意味であるため、より正確な表記といえよう。

報告書はグーグルが「リストからの削除」をする際の4つの指針を提案している。(1)公人かどうか、例えば政治家、企業経営陣、著名人、宗教上の指導者、スポーツ選手など。この場合、削除の対象にはならない可能性が高い、(2)情報の種類(個人の性生活、財務状況、身元情報、未成年の情報など)も削除対象となる要素だ、(3)情報源がメディアの記者、著名なブロガー、作家などで公益のために情報を出した場合、削除対象になりにくい、(4)時間―その情報が出てからどれほどの年月が経っているかで判断が変わりうる。

どの地域が対象となるかについて、大部分の委員が「欧州域内での検索サービスに適用」を支持した。グーグルによると欧州の利用者の95%が自分たちの居住国版の検索エンジンを使っているという。欧州にいながらも他地域の例えば米国版グーグルを使うことは可能であるため欧州域内での検索サービスに限定しても問題はなく、逆に全世界を対象とすると情報統制をもくろむ「独裁国家が利用者に厳しい統制をかける」手法として悪用されることを避けるためだ。

報告書の「付録」部分には各委員の意見が表明されている。委員3人は「削除」がパロディーを行う権利を侵害する恐れから、削除対象に宗教についての情報を入れないようにするべきと主張した。

「ウィキペディア」創立者のジミー・ウェールズ氏はグーグルという一企業が削除対象を自分たちで決定することへの大きな危惧を表明した。「情報をもみ消される側の出版社が申し立てを起こす適切なステップを与えられないままに、一営利会社が私たちの最も基本的な権利である表現やプライバシーについて、裁判官の役目を果たすことを余儀なくされる司法体制に真っ向から反対する」。同様の危惧は複数の英語圏の報道で散見された。

米国でグーグルを検索エンジンとして使う人の割合は60数パーセントだが、欧州では90%を超えるとされる。1企業が市場をほぼ独占する事態が現実化している。

個人情報の「リストからの削除」について、言論活動に関わる人から出た懸念は、「歴史を書きかえる」行為につながりはしないかと言う点だ。たとえ本人にとっては不快であり、一般的には瑣末と思われる情報でも、ある社会状況を研究する、あるいは正確に把握するためには貴重で重要な情報となる場合もあり得る。

しかし、ひとまず、不正確な個人情報を「正す」仕組みができたことは大きな功績といえよう。検索エンジンが何を表示するかしないかは運営側にほぼ一任されてきたが、CJEUの判断は市民側からの申し立ての道筋を作ったのである。

月刊誌「メディア展望」4月号の筆者原稿に補足しました。)

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊『なぜBBCだけが伝えられるのか 民意、戦争、王室からジャニーズまで』(光文社新書)、既刊中公新書ラクレ『英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱』。本連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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