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津田梅子の学友・内田政子の生涯

田中淳夫森林ジャーナリスト
前列中央の西太后の左隣に座るのが内田政子。(土倉家提供)

 新紙幣発行で、そこに描かれた3人の人物に注目が集まっている。その中の五千円札の津田梅子と言えば、日本最初の女子留学生で津田塾大学の創設者として知られる。

 ただ明治時代の女子留学生で後に活躍したのは、彼女だけではない。一緒に官費留学した山川(大山)捨松永井(瓜生)繁子は知られているが、隠れた私費留学生もいたのである。

 ここでは、津田と同時期にアメリカに留学し、後に日本の外交を裏で支えた内田政子を紹介したい。彼女は留学から帰国すると、外交官夫人として清国に赴任し、宮中を牛耳っていた西太后と寝室で会うほど仲がよく、またイギリス、オーストリア、アメリカ、ロシアなどでも社交界で活躍している。

津田梅子と同じ大学に留学

 政子は、1871年に、奈良県吉野の土倉庄三郎の次女として生まれた(戸籍上の名は政)。土倉庄三郎は、山林王として三井家と並ぶ大金持ちで、明治の元勲と親しく交わり近代化に尽くした人物である。

 政子は10歳のときに姉や妹とともに梅花女学校、その後同志社女学校に転校し学ぶ。さらに宣教師ミス・デントンの私塾であるデントン塾で英語の勉強もした。

 そして卒業時にアメリカ留学の誘いを受けて、1890年に旅立った。日本で最初の私費の女子留学生だったという。

 当時の留学費用は年間1000円以上、現在ならざっと3000万円に相当するというが、庄三郎にとってはまったく気にすることのない額だったという。

 デントン女史が彼女の受け入れ先となるモリス家に送った手紙には、「政子は日本で王侯貴族と同じような生活を経験しているから、アメリカの贅沢な生活も問題ないでしょう」と書かれている。

 アメリカでは英会話の勉強の後、ブリンマー大学に進学した。実は、このとき津田梅子も2度目の留学でブリンマー大学に在籍していた。年齢は津田が7歳年上だが、二人は数少ない日本人女子として交わったに違いない。ただし、それを示す資料は見つかっていない。

 梅子は3年で帰国したが,政子は7年間も留学を続け、英語のほかドイツ語、ラテン語、フランス語などを習得している。当時の日記は英語で書かれている。さらにフランスに留学したいと希望を出すが、さすがに父は帰国を促した。

清国の西太后との交わり

 1897年に政子帰国。ちょうどこの頃、庄三郎は日本女子大学の設立運動を行っていた。日本女子大の設立支援に関しては実業家の広岡浅子が有名だが、土倉家も大きな役割を果たしていた。母寿子も熱心だったから、おそらく政子も運動に触れていただろう。

 津田梅子が津田塾大学の前身である女子英学塾を開いたのが1900年。日本女子大学校創立は1901年だから、同時期に女子の高等教育機関の設立の機運が高まっていたのだろう。

 政子は、1899年に外交官の内田康哉に見初められ、熱列な求婚の末に結婚することになった。内田のラブレターは英語で書かれていたというが、語学力は政子の方が高かったという評判である。

 1901年に内田は清国に公使として赴任。政子も同行するが、そこで中国語もマスターし、西太后に気に入られるのである。

 欧米の外交官および夫人たちの傲慢さに辟易していた西太后は、政子の礼節や頭のよさを褒めている。親しくつきあった記録の中には、中国の貴族の服を着た政子や、西太后からいただいた愛玩犬のチンと戯れる写真などが残されている。

 冒頭の写真も、外国人にも関わらず清国宮中で西太后を取り巻く人々と違和感なく溶け込んでいることに驚かされる。

 この交流が、日露戦争にも大きく影響を与えた。

日露戦争の裏側

 当時、内田康哉は外交官として清国とロシアの情報通として名を挙げたが、その陰には政子の活躍があった。

 とくに日露が開戦してからは、日本軍はロシア軍に苦戦する中で行われた奉天会戦で、乃木将軍は第三軍を率いて大きく迂回し敵の後ろ側に回り込む作戦を取る。だが、その際に清国が定めた中立地帯を通ることになったのだ。政子夫人は深夜に西太后を訪ねて、黙認してもらえるように密かに働きかけた。現実にも、清側の抗議はなかったようだ。

 もちろん、この件は外交文書などには残らないが、当時の外交官によって土倉家に伝えられたそうである。

 その後、内田康哉はオーストリアやイギリス、アメリカなどの大使を務め、政子も同行した。ロシアでは革命の真っ只中に遭遇している。またアメリカでは「政子さんも大使に」と冗談を言われたという逸話もある。やはり夫人の優秀さが際立ったのだろう。

 内田康哉は、その後外務大臣や満鉄総裁などを歴任したが、そうした日本外交の陰に政子の「内助」ならぬ「外助の功」があったと思うと、歴史の見え方が少し違ってくる。

ヨーロッパ赴任時代の政子(土倉家提供)
ヨーロッパ赴任時代の政子(土倉家提供)

 二人の間に子供は恵まれなかったが、養子に寛治を迎え、晩年は静かな暮らしだったようだ。内田康哉は1936年11月に亡くなった。

 終戦直後、横須賀線の列車内で進駐軍のアメリカ水兵が日本女性にちょっかいを出した際は、きれいな英語で「行儀よくしなさい!」と制止したという。

 政子は1947年9月に鎌倉で亡くなった。

 五千円札の津田梅子だけでなく、朝ドラ「虎に翼」のおかげで日本初の弁護士で裁判所長になった三淵嘉子も世に知られるようになった。広岡浅子も同様だろう。

 ほかにも時代と格闘した多くの女性がいるだろうが、まだ世に知られていない人が大半だ。内田政子もそんな一人として、心に留めたい。

森林ジャーナリスト

日本唯一にして日本一の森林ジャーナリスト。自然の象徴の「森林」から人間社会を眺めたら新たな視点を得られるのではないか、という思いで活動中。森林、林業、そして山村をメインフィールドにしつつ、農業・水産業など一次産業、自然科学(主に生物系)研究の現場を扱う。自然と人間の交わるところに真の社会が見えてくる。著書に『鹿と日本人 野生との共生1000年の知恵』(築地書館)『絶望の林業』『虚構の森』(新泉社)『獣害列島』(イースト新書)など。Yahoo!ブックストアに『ゴルフ場に自然はあるか? つくられた「里山」の真実』。最新刊は明治の社会を揺り動かした林業界の巨人土倉庄三郎を描いた『山林王』(新泉社)。

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