横山武史が振り返る年度代表馬エフフォーリアと過ごした1年(前編)
あのヤンチャな子が押しも押されもせぬGⅠ騎手へ
2003年夏のフランス、ドーヴィル。この時、かの地を訪れていた横山典弘騎手に誘っていただき、歩いて10分ほどの隣町トゥルーヴィルで食事をした。当時、毎年のように渡仏していた横山は、この年、珍しく家族を連れて来ていた。私は横山一家での食事の席に混ぜていただいたわけだが、その帰り道で事件が起きた。
「武史がいない!」
先述した通りホテルまでの道程は10分ほど。その間に三男で当時4歳の武史が姿を消した。途中には入り江に面した橋もあるし、私ですら動悸が激しくなったのだから典弘の心中は察するに余りある。皆で必死に探した結果「迷子になったのは皆の方」と言わんばかりの表情で武史はひょっこり戻ってきた。
「ちょっと隠れてみた」と言うヤンチャな息子を、父が叱ったのは言うまでもない。
「騒ぎになったのは何となく覚えています」
横山武史(美浦・鈴木伸尋厩舎)は当時をそう述懐し、更に続けた。
「あの頃はまだ騎手になろうとは考えていませんでした」
ところがあれから20年近く経った現在、押しも押されもせぬGⅠジョッキーとなった。
2021年は5つのGⅠを含む重賞9勝。年頭にJRA通算200勝に達したかと思えば、年末には同300勝を達成。2年連続での関東リーディングを獲得した。
タイトルホルダーで3000メートルにわたって独走した菊花賞(GⅠ)は「作戦通りに逃げて勝てました」と言い、キラーアビリティでのホープフルS(GⅠ)については「難しい馬ですが喧嘩する事なく納得出来る騎乗が出来ました」と言った。そして、エフフォーリアとの1年間については、次のように語った。
「最初から良い馬と感じた」
横山武史がエフフォーリアを初めて見たのは2020年の夏。後の年度代表馬がまだ2歳のデビュー前の事だった。
「経験の浅い自分をしても良い馬だと感じました」
実際に跨ると体の使い方の上手さと性格的にも乗りやすさを感じ「かなり出世できると思った」と言う。
8月23日、札幌での新馬戦は「抜け出したらモノ見をした」ため2着との差は僅か4分の3馬身。それでも武史は次のように感じたと続ける。
「遊びながら走っている感じだったので、着差はともかく勝てた事にやはり走ると確信出来ました」
2戦目は11月の東京の百日草特別。
「序盤に少し噛んだから我慢を覚えさせたくて抑えました。結果、辛抱してくれて、追ってから良く伸びました」
学習能力の高さをも感じさせる競馬だったと続けた。
21年初戦の共同通信杯(GⅢ)でも少し掛かった。
「ただ、2戦目で我慢を覚えさせたので、抑えたら折り合ってくれました」
最後は2着に2馬身半の差をつけて完勝。ゴール直後、鞍上は派手なガッツポーズを披露した。
「デビュー前から『重賞を勝てる』と言っていた馬だったので、嬉しくて自然とガッツポーズが出てしまいました。ちょっとやり過ぎでしたね」
当時を述懐する武史は苦笑するが、2着のヴィクティファルスが直後にスプリングS(GⅡ)を勝ち、3着は後のダービー馬シャフリヤールだった事を思えば、結果的にあのくらい喜びを爆発させても良かったのかもしれない。
皐月賞(GⅠ)は2歳王者ダノンザキッドに続く2番人気。
「父にも『緊張するか?』と聞かれたのですが、チャンスがあると考えていただけにやはり緊張しました」
そんな緊張をほぐしてくれたのは、誰あろうエフフォーリアだった。
「パドックで跨ると、いつも通り落ち着いていたので、余計な心配はしなくて良いと少し気が楽になりました」
「内過ぎず外過ぎずの良い枠(7番枠)からいつも通りの安定したスタートを切れたので、スムーズに好位をとれました」
抑える競馬を教育した成果とそれなりに流れたペースのお陰で、良い雰囲気で最終コーナーを迎えた。
「4コーナーでは手応えが違いました」
「馬場状態が悪かったから必ず前が開く」と考えていると、その通り、進路が出来た。そして、その次の刹那、パートナーに指示を送った。
「ためれば切れるのは分かっていたけど、小回りの中山という事を考慮して早目にゴーサインを出しました」
鞍上の思惑通りパートナーは反応。アッと言う間に後続との差を広げ、1冠目のゴールに飛び込んだ。2着タイトルホルダーにつけた差は3馬身。これでデビュー以来4連勝となったエフフォーリアにとって、過去最大に差をつけた優勝劇となった。
「GⅠの直線で抜け出した経験なんてなかったから余裕はありませんでした」
だからこれだけの差をつけたにもかかわらず「ゴールを過ぎて初めて勝ったのが分かった」と笑う。
「2着のタイトルホルダーに乗っていた田辺(裕信)さんが、入線後に『強いなぁ~』と言ってくださったので『はい!強いです!!』と答えました」
ダービーでのプレッシャーを軽減させてくれたのは……
こうして迎えたのが日本ダービー(GⅠ)だった。日本中のホースマンが注目する3歳の頂上決戦は武史にとってもやはり特別なレースだった。
武史少年が、初めて“騎手”を意識したのは父がロジユニヴァースに乗って初めてダービーを制した09年。10歳の時だった。父の勇姿を見て騎手を目指す決心をすると、競馬学校の生徒だった14年にはワンアンドオンリーで父が勝つ場面に立ち会った。
「いつか自分も父のように勝ちたい」
そう思ったダービーに、無敗の皐月賞馬で挑む事になった。単勝は1・7倍。当時まだ22歳の鞍上にのしかかるプレッシャーはいかばかりだったのか……。
「勿論、プレッシャーは感じました。でも、過去に1度ダービーに乗せていただいていたのが自分の中では大きかったです」
遡ること2年。19年のダービーで武史はリオンリオンの手綱を取っていた。騎乗を予定していた父・典弘が騎乗停止となり「誰が乗るのだろう?と思っていた」という武史に声がかかったのだ。
「逃げて大きく負けてしまった(15着)けど、自分としては悔いなく乗れました」
また、もう1つ、重圧に潰されずに堪えられた理由があった。
「前の年(20年)に関東のリーディング争いをして、勝てました。夏の北海道開催くらいから意識して、年末が近付くにつれ、眠れなくなる日も増えたけど、結果、トップになれた事で精神面はだいぶ鍛えられたと感じたし、自信もつきました」
こうして本番当日を迎えた。(後編へ続く)
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)