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日本ラグビーはまた1人、W杯の「顔」を失った! 平尾誠二さんの早過ぎる死

永田洋光スポーツライター
神戸製鋼ではV1からV3までキャプテンを務め、ラグビーに大きなインパクトを与えた(写真:築田純/アフロスポーツ)

ラグビーの「顔」として広く知られた平尾誠二さんが、20日亡くなった。

享年53。

あまりにも早過ぎる死だった。

勝利の女神に愛された男

平尾さんは、勝利の女神に愛された男だった。

昭和天皇崩御に揺れた1988年度シーズンに、26歳で神戸製鋼ラグビー部のキャプテンに就任するや、「万年優勝候補」と陰口をたたかれていた同部を初の社会人大会優勝、日本選手権優勝に導く。これで、伏見工業高校、同志社大学に続いて、高校以降は所属したチームすべてで日本一になったことになる。

その直後には日本代表監督に就任したばかりの故・宿澤広朗氏にキャプテン就任を要請され、いったんは答えを保留したものの、直接会って話し合い、意気投合するや要請を受諾。そのまま89年5月28日にスコットランドを破る大金星を挙げ、翌90年の第2回W杯アジア・太平洋地区予選では、トンガ、韓国を破って2回連続のW杯出場を果たした。

そして迎えた91年の本大会では、ジンバブエ代表を破り、W杯初勝利を挙げた。

この勝利が、昨年のW杯イングランド大会で日本代表が南アフリカ代表を破るまでの、W杯における唯一の勝利だった。

神戸製鋼ではキャプテンを退いた後も中心選手として活躍し、94年度には日本選手権で大東文化大学を破って新日鐵釜石以来の7連覇を達成した。

この間、プレー同様に弁舌も冴え渡り、数多くの名言を残している。

たとえば、V2のシーズンにあたる89年度のこんな言葉が今でも記憶に残っている。

「僕がスクラムからボールをもらって相手を3人抜いてトライを挙げたとしましょう。新聞は“さすが平尾、鋭いステップ!”と書くかもしれない。でもね、僕は自分が走り出したときに、相手の(真っ先にタックルにくる)フランカーが足を滑らせるのを見ている。そんなもん、僕のステップが鋭かったからじゃなくて、相手がコケたが故のトライでしょ。そこを見誤ったら、自分がそこで退化する。チーム内でも、新聞の“神鋼、強し!”みたいな言葉に勘違いしないよう、厳しく言っています」

このとき平尾さんが語りたかったテーマは「進化と退化」。

平尾さんを中心とするバックスの活躍で初優勝を遂げたことに安住すれば、フォワードは確実に退化するし、バックスの進化もなくなる。かといって、フォワード一辺倒の戦い方に変えれば、今度はバックスが退化する。そんな進化と退化のバランスを見極めないと、ラグビーは進化しないということだった。

※神戸製鋼については、以下のリンクで私がかつてNUMBER誌に寄稿した『神戸製鋼・真紅の挫折 V8はなぜ成らなかったか』を無料で読むことができます。Rugby Japn 365

最後のインタビューで語った“危機感”

私が初めて平尾さんにインタビューしたのは、初優勝を遂げた直後だから89年2月のことだが、以来、年に数回取材という形で話を聞いた。最後のインタビューが昨年の1月30日。拙著『スタンドオフ黄金伝説』(スタンドオフ黄金伝説)の取材だったから、取材者と被取材者という関係で26年間、つかず離れず話を聞いたことになる。

その年の秋に平尾さんは急激に痩せ、体調の悪化が懸念されたのだが、1月の時点ではまだ体型は普段と変わらず、いつも通りカッコ良かった。ただ、今にして思えば、少し体がだるそうな様子ではあったが。

それでも、平尾さん自身のスタンドオフ論を話してもらい、松尾雄治さんや本城和彦さんといった歴代の名スタンドオフとの比較論や、W杯イングランド大会に臨む日本代表の背番号10に誰が一番向いているのかといったテーマに沿って、時に冗談を交え、時には熱弁を振るって、時間はあっという間に約束の2時間になった。

なかでも、レコーダーを止めてから、2人でW杯の勝敗予想をしたのが、強く記憶に残っている。

平尾さんはこう言ったのだ。

「(初戦の)南アフリカと中3日のスコットランドは、緊張感もあるし、勝ち負けは別にして、きっといい試合をすると思う。でも、次のサモア戦まで中9日というのが嫌だな。しかも、最終戦がアメリカというのは、もっと嫌だ。仮に、南アとスコットランドに連敗したら、いかに内容が良くても4連敗する可能性はあるよ」

代表選手としても、代表監督としても、アメリカが日本にとって戦いにくい相手であることを平尾さんは熟知している。何しろ、87年の第1回W杯で、絶対に勝てるだろうと臨みながら、そしてトライ数で上回りながら、18―21と敗れる経験をしているのだ。連敗して緊張感が途切れた状態での残り2試合を考えれば、まったく予断を許さないというのが、平尾さんの読みだった。

そして、最後にこう付け加えた。

「だからこそ、日本ラグビー協会は、このチームが4連敗したときにどういうコメントを出すべきなのか、今から考えておく必要がある。だって、強化の方向性は間違っていないよ。正しい強化を、これ以上できないところまでやって、それでも負けたときに、日本ラグビーを代表してどんな答えを出すのか――これは本当に真剣に考えなければならない問題だと思う」

背景には強い危機感があったのだろう。

この大会で勝利を挙げられなければ、日本は通算1勝しか挙げていないにもかかわらず、W杯を開催する史上初めての国となってしまうからだ。たとえそうなったとしても、それでも日本はどういうラグビーでW杯に臨まなければならないのか――平尾さんは、そこまで考えていたのだった。

幸い、懸念は杞憂に終わった。

エディー・ジョーンズ率いる日本代表は、南アに34―32と劇的な逆転勝利を収めるや、スコットランドには敗れたものの、ポッカリ空いたインターバルをものともせず、サモアにもアメリカにも、しっかり勝ち切った。

喜びはさぞや格別なものだったと思う。

ただ、そのときはすでに病魔が平尾さんの体をむしばんでいた。

なんという巡り合わせなのか――その無念を思うと、言葉が出なくなる。

1人の観客として楽しみたかった19年W杯を前に……

日本のラグビー界は、W杯開催に初めて立候補した05年以降、宿澤氏を失い、09年に開催が決まってからは上田昭夫氏も失った。そしてまた、平尾さんの死である。

ラグビーを知る誰もが、いや、ラグビーを知らない人たちでも、「ラグビーの顔」と認識する人たちが、次々に去ってしまった。

この淋しさはいったいなんなんだ!

そう叫びたくなる気持ちを抑えられなくなる。

かつて平尾さんは19年のW杯日本大会についてこう話していた。

「本当はねえ、1人の観客として“オールブラックスは強いな”とか“ジャパンはこんなラグビーやっとったらアカンだろ”とか言いながら、試合を見て楽しみたいんだ」

現実のW杯をこの地上で見られなくなった今、天国から3人でああでもないこうでもないと騒がしく19年W杯を見守って欲しいと、心の底から思う。

合掌。

スポーツライター

1957年生まれ。出版社勤務を経てフリーランスとなった88年度に神戸製鋼が初優勝し、そのまま現在までラグビーについて書き続けている。93年から恩師に頼まれて江戸川大学ラグビー部コーチを引き受け、廃部となるまで指導した。最新刊は『明治大学ラグビー部 勇者の百年 紫紺の誇りを胸に再び「前へ」』(二見書房)。他に『宿澤広朗 勝つことのみが善である』(文春文庫)、『スタンドオフ黄金伝説』(双葉社)、『新・ラグビーの逆襲 日本ラグビーが「世界」をとる日』(言視舎)などがある。

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