甲子園歴史館は清原和博関連の展示物を撤去する必要はあるのか?
ぼくは関東に住んでいるので、甲子園球場で観戦する機会は多くない。したがって、甲子園歴史館も2010年に一度訪れただけだ。しかし、一度きりでもその充実度にはいたく感銘を受けた。展示物の内容の濃さだけではなく、「見せる」演出が秀逸で、野球殿堂博物館あたりも少しは見習ってほしいと思うくらいだった。
しかし、その甲子園歴史館が、今回早々と清原が高校時代に使用した金属バットや複製ユニフォームをあっさり撤去したことには賛成できない。
甲子園歴史館が清原関連のアイテムを展示していたのは、彼が聖人君子だったからではなく、彼が優れた野球選手だったからだ。別に清原を「殿堂入り」として祀り上げていた訳ではない。また、この施設が「歴史館」と名乗るからには、高校野球を含めた甲子園の歴史を後世に伝えることをモットーにその展示内容が決定されているはずだ。その意味では、高校野球の歴史を語る際に、清原を外すことはできない。彼を無視するのは歴史を歪曲する行為に近い。甲子園歴史館は自らのミッションを放棄しているように思える。
不祥事があると、ただちに臭いものにふたをするというのはいかにも高校野球的だ。部内で暴力事件などの不祥事があると、高野連は即その学校を出場停止にする。その結果、時として被害者までが加害者同様にプレーの機会を失うという「二次被害」に遭う。対外試合禁止を課すより大事なのは、問題を起こした学校一緒になって再発防止策を検討し、その実行をモニタリング、効果があればそれを成功事例として全国に紹介することだと思うが、高野連がそのような活動を展開しているという話をぼくは寡聞にして知らない。今回の甲子園歴史館の措置は、ここで述べたような高野連の体質と酷似しているように思える。
甲子園歴史館が清原関連の展示も行っていたのは、彼を祀っていたからではなく、彼の存在が甲子園の高校野球での重要な歴史の一部だったからだ。いつから甲子園歴史館は聖人の館になったのか。「教育上の配慮から」何らかのアクションを取るなら、清原関連の展示物を隠すのではなく、彼のバットやユニの展示ケースに「2016年2月覚せい剤取締法違反で逮捕」という注釈を付けるべきだろう。