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高校野球 「最後の夏」だった市川(山梨)のミラクルとは?

楊順行スポーツライター
市川高校最寄りのJR市川本町駅(写真/筆者)

「ミラクル市川」の最後の夏が終わった。高校野球・山梨県大会の準々決勝。強豪の東海大甲府に善戦した市川だが、2対4で敗退。来春には増穂商、春夏1回ずつの甲子園出場がある峡南と再編されて新設校になるため、市川のユニフォームでは最後の試合となったわけだ。

 1991年、センバツ。市川は初戦、エース・樋渡卓哉が浪速(大阪)を5安打に抑えて1失点で完投すると、宇都宮学園(現文星芸大付・栃木)には2点を追う9回裏に3点を奪って逆転サヨナラ勝ち。桐生第一(群馬)との準々決勝も、延長11回表に1点を先行されたが、その裏の2点でサヨナラ。準決勝では優勝する広陵(広島)に敗れたが、2試合連続の逆転サヨナラ勝ちは大会史上初めてのことだった。この初出場校の快進撃が、"ミラクル市川"の襲名理由だ。

 当時主将を務めていたのが、2011年から務める今村彰宏コーチである。宇都宮学園戦でサヨナラの犠飛を放った人だ。

「当時は、最終回を迎えても1、2点差なら負けている気がしなかった。ですからじゃんけんで勝ったら、迷いなく後攻めを取っていました」

 自宅は母校と目と鼻の先。「あの当時、町を歩けば必ず"頑張って"と声をかけてもらいました。何十台ものバスで、甲子園に応援に来てくれたのがうれしかったですね」。市川大門町(当時、現市川三郷町)では唯一の高校で、48年に創部した野球部は、59年には県で準優勝するなど、たびたび上位に進出していた。ただ、甲子園は遠い。そもそも当時の山梨県は静岡県、のちに埼玉県と代表を争うことが多く、もともと分が悪かったのだ。67年夏、初めて山梨を制して臨んだ西関東大会も、初戦で大宮工に敗れている。その"おらが町"の高校の初甲子園とあって、センバツ初戦には、当時約1万2000人だった人口の3分の1にあたる4000人がアルプスに詰めかけたという。

 今村コーチは振り返る。

「小学校のとき軟式の関東大会で優勝したメンバーの多くが山梨市川シニアに進み、全国大会ベスト8。その半分近くが市川に入学したんです。私は、田富中で県大会ベスト8まで進んでいた樋渡に電話をかけて、市川への進学を口説きましたね」

 今村コーチらが市川に進んだ89年夏、チームはベスト8。その後の1年生大会でも優勝し、すぐにでも甲子園と夢はふくらんだが、そう甘くはない。89年秋はベスト8止まり。90年夏には2回戦でエース・樋渡がKOされ、東海大甲府に0対8と、屈辱的なコールド負けだ。

「樋渡はいいピッチャーでしたが、とにかくスタミナがなかったんです。ちょっときつい練習をすれば翌日には熱が出るし、1年のころは監督に退部を申し出たこともあると思いますよ」

 だが、2年夏の大敗が大きなきっかけとなる。以後の樋渡は、広瀬義仙部長が住職を務める宝寿院で寄宿生活をはじめ、毎朝6時起床で部長とともに読経をあげ、野球に没頭する日々。夜ともなれば、暗い本堂に線香を立て、シャドーピッチングに集中した。やがて、境内で行われる自主トレにはほかの部員も参加するようになる。当時25人だった部員は同じ中学出身、もしくは顔見知りで、そういう一体感もチームにプラスとなった。

センバツ史上初の2試合連続サヨナラ勝ち

 期待された今村コーチたちの新チームでは、渡辺文人監督も手を打った。当時の山梨は東海大甲府の天下。夏に限れば84〜88年と5年連続出場し、85年夏、87、90年春の甲子園では、いまでも県勢最高タイであるベスト4に進んでいるのだ。そして90年夏には、2年生エース・樋渡で大敗。そのため、

「新チームでは東海大一(現東海大翔洋、静岡)、東海大三(長野)あたりと、よく練習試合をやりました。おそらく、縦じまへのコンプレックスをなくそうというんじゃないでしょうか(笑)」(今村)

 それで免疫ができたかどうかは定かじゃないが、市川は秋の県大会決勝で東海大甲府と対戦し、5対2の逆転勝ち。そして市立船橋(千葉)、桐生第一、宇都宮学園を降す関東大会初優勝が、ミラクル市川のプロローグになるわけだ。

 初出場でセンバツ4強入りした夏も、市川は甲子園に出場。決勝で東海大甲府にサヨナラ勝ちしてのもので、春夏連続出場は、県内ではその東海に次ぐ2校目だった。このときもベスト8まで進出すると、94年夏、99年春、01年春にも出場。そのうち4回がベスト8以上で、5つの黒星はその大会の優勝校に敗れたのが2、対準優勝校が1だから、健闘ぶりがうかがえる。

 だが近年は、上位進出が厳しくなっていた。03年限りで渡辺監督が退き、07年からは学区制が廃止され、全県1区となったことも一因にある。ただでさえ東海大甲府、山梨学院大付といった私立勢が強く、腕に覚えのある近隣の中学生は、甲府市内などの学校で甲子園を目ざすことが多くなり、町内にとどまらなくなったのだ。そこへもってきて、少子化による来春の再編……。

 市川を訪ねたのは14年のことだが、その時点から峡南地区の4校が再編の対象になる、というのがもっぱらの見方だった。ミラクルの立役者の一人・今村コーチは、「ですから、ここ10年。ここ10年の間に、市川の名前でなんとかもう一度、甲子園に」と願っていたものだが……。令和が始まった夏に、「市川」としての歴史が幕を閉じた。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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