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大型精密機械・野村亮介、侍ジャパンへ 2014ドラフト/エピソード5

楊順行スポーツライター

笑って笑っていいねいいねぇ……三菱重工横浜(現三菱日立パワーシステムズ横浜=MHPS)に入社した12年、写真撮影の際には同行カメラマンとなだめすかしたものだ。当時、野村亮介は静清高(静岡)から社会人になったばかり。ちょっとばかりシャイなうえに取材慣れしていないものだから、心をくすぐり、いい表情をもらうのに手こずった。

その野村が、だ。高いレベルの社会人にもまれながら、早くも1年目から日本選手権に登板し、2年目には都市対抗のマウンドも経験。そして3年目の今年は、エース格で都市対抗初戦の先発を任された。ここで、187センチからの角度のある速球とフォークを武器に、Honda熊本を7回まで無失点(結局は7回3分の1を3失点)で抑え、ドラフト上位候補の評価が固まっていく。そればかりかこの21日には、プロアマ混成で臨むU21ワールドカップ(11月7〜16日、台湾・台中)に出場する侍ジャパン日本代表に選ばれた。なにか、路上ライブでたまたま出くわした才能が、メジャーになっていくのを見るような気分だ。

びっくりしたのは、高校時代の11年センバツである。ふつう長身本格派、しかも高校生となるとボールが暴れるものだが、野村の場合、捕手によると「構えたミットを動かすことはほとんどない」というのだ。なにしろ高校時代の公式戦では、1試合あたりの四死球は平均1個以下。制球の秘訣について野村に聞くと、

「やっぱり、コントロールは意識しましたね。(清水飯田)中学時代は軟式で、高校に入学したときには130キロそこそこでしたから、制球で勝負するしかない(笑)。毎日のブルペンで、1球1球大切に投げていました。中学時代も、ヒザ下あたりの高さに糸を張って低めの制球を、ペットボトルを目標に立ててコースの制球を磨いたり……」  

自分のカウントでピッチングができる

11年センバツでは京都成章高に勝ち、夏に優勝する日大三高の強打線と互角の勝負を演じたが、「もし甲子園に行けたら、プロ志望届を出そうと思っていた」というその夏は、静岡県の準々決勝でサヨナラ負け。「まだ実力が足りない。とくに下半身の筋力も足りないので、体を鍛え、経験を積みたい」と飛び込んだのが、社会人野球だった。

そこでは、当時の松下安男監督から「とにかく、自分のカウントでピッチングができる。成長には、実戦経験が必要」と早くから期待され、登板機会があった。また本人にも、社会人の水は合っていたようだ。

「高校までは、怒られないようにと毎日ぴりぴり。でも社会人では、すべて自分次第。雰囲気が違います」

と、ぐんぐん実力を伸ばしていった。むろん、苦い思いも味わっている。1年目の日本選手権では、NTT西日本を相手に延長12回の一死満塁で登板し、サヨナラ犠飛。昨年の都市対抗では、JR東日本戦に救援したが、満塁被弾。1回ももたなかった。「あの満塁弾は、ずっと記憶に残っていました」という今年の都市対抗は、だからリベンジの機会だったわけだ。

2度目の東京ドーム。Honda熊本戦の好投のあとは、日本新薬戦でも10回からリリーフした。タイブレークで敗れたものの、149キロをマークした速球とフォークで、4者連続三振を奪ってもいる。

「体力的に疲れなどは感じないんですが、終盤に変化球が高めに浮いてしまうのが課題」と本人はいうが、球速も、角度も、制球もいい大型精密機械。「プロに挑戦したいと思ってやってきました。(残留を望まれた)会社にも、了解してもらえた」という表情に、高卒当時のようなはにかみはもう、ない。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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