【戦国こぼれ話】蕎麦どころの信州蕎麦は、すでに戦国時代に存在していた
蕎麦といえば、信州蕎麦。暑い夏には、蕎麦が一番だ。なかでも長野県の蕎麦は、「信州蕎麦」として一つのブランドを確立している。ところで、この「信州蕎麦」のルーツをたどると、戦国時代までさかのぼることをご存じだろうか。
■先史時代にさかのぼる蕎麦
そもそも長野県と蕎麦との関係は深く、先史時代までさかのぼる。約5千~3万年前と推定される野尻湖(長野県信濃町)の湖底からは、土の中から蕎麦の花粉が採集されている。
むろん古代人が食したと断言できないが、古くからかかわりがあったことを確認できる。蕎麦は痩せた土地でも栽培できたので、口にした可能性は高いのではないだろうか。
■近世の諸文献の蕎麦
近世の諸文献によっても、長野県と蕎麦のかかわりを確認できる。『毛吹草』(寛永15年〈1638〉成立)には、蕎麦切りが信濃国ではじまったと記載されている。
また、俳文集『風俗文選』(宝永3年〈1706〉)にも、蕎麦切りは信濃国本山宿(長野県塩尻市)ではじまり、広く諸国に広まったと書かれている。
■蕎麦の食べ方
現在、われわれは蕎麦を細く切って、出汁につけたり、かけたものを食べている。もり蕎麦、ざる蕎麦、あるいはぶっかけ蕎麦などである。ところが、昔は必ずしもそうではなかった。
かつては、蕎麦粉に熱湯を加えて餅のように捏ね、蕎麦餅や蕎麦掻として食べるのが普通であったという。むろん、今でも蕎麦掻は人気がある。
■戦国時代の信州蕎麦
定勝寺(長野県大桑村)には、天正2年(1574)に仏殿を修繕した記録が残っている。その史料によると、仕事の合間に「蕎麦切り」が振舞われたとの記載がある。
今のような蕎麦切りではないにしても、その原型となるものだったのだろう。ちなみに文永寺(長野県伊那市)においても、理性院厳助が頻繁に麺類を食した記録が残っている。
それは、「冷麺」あるいは「煎麺」と称されるものであった。このように、蕎麦の原型は、戦国時代までたどることが可能であり、長野県が本場だったことがわかる。