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日本サッカー協会は、新監督を決める前にやることがある

杉山茂樹スポーツライター

「アギーレ」という選択は悪くないと思う。日本のサッカーに不足している要素を補ってくれそうな適任者。少なくともザッケローニより格段に良いと思う。だが、僕はその名前をいま聞く気にはなれない。そもそも新監督の話をする気がしない。この原稿を書いているいま、W杯はまだ終わったばかり。僕はまだリオデジャネイロにいて、W杯を存分に満喫しているいまこの時に、次のW杯の話をする気などしないのだ。

なぜ早くも4年後の話をするのか。先に進もうとするのか。9月上旬に親善試合を控えているから? 来年早々に、アジアカップを控えているから?

9月上旬に行なわれる親善試合を、新監督の下で行なおうとすれば、遅くとも8月半ばまでに、新監督は来日していなければならない。前回は間に合わなかった。ザッケローニの就任記者会見が開かれたのは8月末日。9月上旬に行なわれた親善試合(パラグアイ戦、グアテマラ戦)は原博実技術委員長が監督代行として采配を振るった。メディアは新監督探しに手間取った原さんを責めた。新星日本代表の船出を、新監督で迎えられないとは何事かと。

新監督を探し始めたのは南アフリカW杯後。大仁邦彌サッカー協会会長がまず岡田武史前監督に続投を要請。岡田さんがそれを固辞してからになる。実質1ヵ月強。わずかな期間しか与えられていなかった。

サッカー協会は従来から、1人の監督に次のW杯までの4年間を任せようとしてきた。「4年間丸投げ」を基本にしてきた。政権を4年間、一人の監督に委ねようとしたわけだが、だとすれば、その人物がどんな監督か徹底的に調べなければならない。その前に我々日本側が、その人物に何を求めるかを決めておかなければならない。過去を総括、検証し、日本のサッカー界に何が欠けているかを整理しておく必要がある。

だが、わずか1ヵ月で、我々が新監督に要求するものを整理し、それと完全に一致する新監督を見つけ出すことなどできるはずがない。その前にファンにコンセンサスを求める必要もある。もし、そうしようとすれば、近場に人材を求めることになる。その例がジーコ、オシムになるが、当時の会長、川淵三郎氏が彼らの名前を口にしたのは、恐ろしく早い時期だった。ジーコの場合は2002年日韓共催W杯の決勝が行なわれた4日後。オシムは2006年ドイツW杯の期間中だった。ドイツから帰国した成田で行なった記者会見で名前が漏れた。

理屈的に考えて、急ぐべきでないものをなぜ、そんなに急ぐのか。協会側というか、任命責任のある為政者が、総括や検証を避けたがるのは、分からないではない。だが、本来それを追求すべき立場にいるメディアまで、急ぐのはどういうワケか。

メディアもまた急ぎたいからだ。前向きな話がしたいからだ。新監督が決まればニュースになる。雑誌や新聞の販売部数はそれなりに伸びるだろう。テレビの視聴率も上がるだろう。ネットのページビューも上がるだろう。じっとしていられない理由は商売上の都合だ。日本サッカー発展のためではない。

4年前、原さんがメディアに責められた理由もそこにある。

いま「アギーレ!」「アギーレ!」と、積極的にその話題に触れようとしているメディアは、怪しいと思った方がいい。

プレビューとレビュー。日本のサッカー界(スポーツ界)に多いのはプレビューだ。W杯前は、「さあ、始まりますよ」と、楽観的な見通しで前景気を煽ろうとする。コロンビア戦を前にすれば、「2点差以上で勝利を収めれば……」と、少ない可能性を、大きく伝えようとする。ならば試合後は、それと同じぐらいのボリュームで、レビューを伝えるのが、あるべきバランスというものだ。

W杯の反省検証番組を放送するテレビ局は、果たしてどれほどあるだろうか。放送されないであろう理由は、本当にそれをすれば、自分たちがそれに加担していることが、明るみに出るからだろう。

「アギーレ!」とともに、よく見かける言葉の中に「方向性は間違っていない」というものがある。ザッケローニの路線は継承されるべきだとする声だが、これも、為政者を楽にする言葉だ。

原さんは攻撃的サッカーを信奉する人で、4年前の新監督探しも、そのコンセプトに基づいて行なわれた。日本サッカー史上、あるコンセプトに基づいて代表監督探しが行なわれたのはこれが初。ザッケローニはこれまでの監督とは異なる意味を持つ監督だった。

「ピッチを広く使い、高い位置からプレスを掛けボールを奪うサッカー」とは、原さんが具体的に用いた言葉だが、いま、このご時世において、そうでないサッカーは存在するだろうか。守備的サッカーというものは、ほぼ消滅した。攻撃的サッカーは当たり前。それは死語にさえなりつつある。

「パスを繋ぐサッカー」も、まあ、当たり前だ。日本のパスワークは良くも悪くも独得のものがあるが、パスを繋がないサッカーを目指そうとしている国は、一つもないと言っていい。

そうした中で「方向性は間違っていない」と言われても、方向性の中身が見えないので、反応のしようがない。ザッケローニの路線を継承すると言われても、路線の中身が見えてこない。それはおそらく「攻撃的なパスサッカー」になるのだろうが、そうではないサッカーを目指す方が大変だ。

ザッケローニは、その一方で、W杯の各試合で終盤になると放り込み作戦を展開した。アジアカップ準決勝の対韓国戦では、延長に入り1点リードすると5バック態勢で臨み、逃げ切りを図った。結果は失敗。だが、PK戦を制したため、その失態は追求を免れた。

攻撃的サッカー、パスサッカーというならば、こうした采配こそ、問題にされるべきである。攻撃的か守備的サッカーか。パスサッカーか否か。方向性を変な二者択一論に持ち込み、方向性に間違っていなかったというのは、ザッケローニ采配の問題点を反映したものではない。

攻撃的サッカー、パスサッカーを本当に追求できなかったところに、彼の問題がある。いま論じるべきは、方向性の是非では全くない。繰り返し言うが、違う方向性などあり得ないのだから。

本田圭佑及びザッケローニについての総括は、『SportivaブラジルW杯特集号』にも書いたが、僕がいま一番言いたのは、負けをしっかり受け入れることだ。そこから目を反らさず、大真面目に反省する。新監督を決める前にすることは、実はたくさんある。そこのところを端折(はしょ)って先に進もうとすれば、4年後、同じ過ちを繰り返すことは目に見えている。

そもそも、技術委員長とは何なのか? 専務理事とは何なのか? 原さんに任命責任はないのか。責任は取らなくていいのか。新技術委員長に就任すると言われる宮本恒靖氏にはどんな権限が与えられているのか。ザッケローニに影響力を発揮できなかった原さんのようでは存在意義がない。僕はそう思う。

(集英社・Web sportiva 7月14日掲載原稿)

スポーツライター

スポーツライター、スタジアム評論家。静岡県出身。大学卒業後、取材活動をスタート。得意分野はサッカーで、FIFAW杯取材は、プレスパス所有者として2022年カタール大会で11回連続となる。五輪も夏冬併せ9度取材。モットーは「サッカーらしさ」の追求。著書に「ドーハ以後」(文藝春秋)、「4−2−3−1」「バルサ対マンU」(光文社)、「3−4−3」(集英社)、日本サッカー偏差値52(じっぴコンパクト新書)、「『負け』に向き合う勇気」(星海社新書)、「監督図鑑」(廣済堂出版)など。最新刊は、SOCCER GAME EVIDENCE 「36.4%のゴールはサイドから生まれる」(実業之日本社)

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たかがサッカーごときに、なぜ世界の人々は夢中になるのか。ある意味で余計なことに、一生懸命になれるのか。馬鹿になれるのか。たかがとされどのバランスを取りながら、スポーツとしてのサッカーの魅力に、忠実に迫っていくつもりです。世の中であまりいわれていないことを、出来るだけ原稿化していこうと思っています。刺激を求めたい方、現状に満足していない方にとりわけにお勧めです。

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