朱印船、炎上の顛末!有馬晴信とポルトガルとの衝突、その悲劇と余波
慶長十四年、季節風に乗り朱印船が海原を行く時代。
有馬晴信の朱印船が占城(チャンパ)への途上、ポルトガル領マカオに寄港したのがそもそもの発端でございました。
この旅路の途中、日々の喧騒を忘れられない船員たちが、マカオの港で騒ぎを引き起こしたのです。
相手はマードレ・デ・デウス号の船員たち。些細な取引のもつれが、思いも寄らぬ悲劇の引き金を引いたのです。
マカオ総司令アンドレ・ペソアが事態を鎮圧した結果、晴信側の水夫六十名が命を落とすこととなりました。
これが「朱印船騒擾」と呼ばれる惨事の始まりでございます。
翌年、ペソアは長崎奉行・長谷川藤広の調書を提出し、徳川家康に弁明したいと申し出ました。
ところが藤広はポルトガルとの交易縮小を懸念し、真相を曖昧にしたまま自らの代理人を駿府へ派遣。
ペソアの不満は高まり、幕府糸割符制度への不満も相まって、自ら駿府に赴こうとする意向を示すも、イエズス会によって抑えられる始末。
こうした微妙な政治の綾が、次なる事件の火種となるのです。
慶長十五年十二月、有馬晴信の朱印船は長崎に入港し、ついにペソアの乗るデウス号を長崎港外で攻撃いたしました。
この攻撃は四日四晩にも及び、船内に追い詰められたペソアは、自ら火薬庫に火を放ち爆死。
これが「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号の悲劇」と呼ばれる、歴史の中でも特筆すべき一幕です。
これによりポルトガル商船は日本来航を途絶え、明産の生糸供給も途絶するなど、交易に大きな打撃を与えました。
しかし、この物語はここで終わるわけではございません。
晴信の報復の舞台裏には、彼の旧領回復という野望が潜んでおりました。
その一方で、長谷川藤広は晴信の動きを「手ぬるい」と評し、次なる暗雲を呼び寄せます。
これに大八という策士が絡み、晴信に巧妙な虚偽を伝え金銭をだまし取ったことが、悲劇をさらに深めることとなったのです。
やがて虚偽が露見し、大八は火刑に処され、晴信は流罪の身となり、最期には斬首されるという無惨な結末を迎えました。
家康に近侍していた晴信の嫡男直純が家督を継ぐ一方で、晴信の波乱の生涯は幕を閉じました。
その余波は、日本とポルトガルの交易関係にも大きな影響を及ぼし、歴史の潮流を変えた一幕でございます。
かつての航海の夢が、海の向こうで波間に消えていったその余韻は、今なお風に乗って語り継がれているようでございます。