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【戦国こぼれ話】あの北条早雲(伊勢宗瑞)は、意外にも岡山県井原市の誕生だった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
北条早雲と呼ぶのは誤りで、伊勢宗瑞が正しい。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 毎年1月2日・3日の両日は、箱根駅伝が行われた。優勝は前評判どおり、青山学院大学だった。おめでとうございます。

 箱根といえば、北条氏の菩提寺・早雲寺が有名だ。その祖・北条早雲(伊勢宗瑞)は謎の多い人物だが、その出自と関東進出の流れまでを取り上げておこう。

■北条早雲(伊勢宗瑞)の出自

 伊勢宗瑞とは、かつて「北条早雲」と称された人物である。従前、早雲は一介の素浪人から大名にまでのし上がったとされてきた。一種の歴史ロマンであろう。

 その出自についても、山城(京都府)、大和(奈良県)、備中(岡山県)といった諸説が提示されてきた。いわば早雲は謎の人物であり、それゆえ多くの想像がかきたてられた。

 しかし、その謎にも終止符が打たれた。最近の研究によると、早雲の出自について新しい見解が提示され、室町幕府の政所執事を務める伊勢氏の一族であることが明らかにされた。

 早雲は備中国荏原荘(岡山県井原市)に本拠を置く、備中高越山城主・伊勢盛定の次男で、もとの名を盛時(のちに宗瑞)という。

 盛定は室町幕府に仕えた京都伊勢氏の流れを汲み、幕府の申次を務めていた。つまり、早雲の血筋は、それなりの名家だったといえる。

 実は、早雲自身が「北条早雲」と名乗ったことは一度もなく、それは軍記物語などの俗称に過ぎない。以下、早雲ではなく、正しいとされる伊勢宗瑞を用いることとしたい。

■生年は確定せず

 宗瑞の名前や出自については明らかにされたが、残念なことに誕生年は未だに確定していない。

 長らく永享4年(1432)説が支持されてきたが、最近では康正2年(1456)説が有力視されている。

 ただ、いずれの説を採るにしても、年代的な矛盾が指摘されているので、定着するに至っていないのが実情だ。なお、宗瑞が亡くなったのは、永正16年(1519)である。

 とはいえ、関東に縁もゆかりもない宗瑞が、疾風怒濤のごとく伊豆、相模を支配下に収めたのは事実である。検地の実施や「早雲寺殿廿一箇条」を定めるなど、戦国大名の先駆的な存在として高く評価されている。

■宗瑞の関東進出

 文明8年(1476)、宗瑞は将軍・足利義尚の申次として、はじめて史上に登場する。当時、宗瑞と関わることになる今川氏は、遠江の守護・斯波氏と敵対関係にあった。

 同年2月、今川義忠は斯波氏に与した横地氏を金寿城に攻め、駿河に戻る途中で、横地氏らの残党に襲撃されて落命する。享年41。

 今川家は、当時まだ6歳の龍王丸(のちの氏親)を残すだけで、家中は大いに動揺した。

 義忠没後の混乱に乗じて、義忠の従兄弟・小鹿範満が今川家の家督を狙い、家臣たちを扇動した。思いがけない範満の行動に、義忠の妻・北川殿(宗瑞の姉)と龍王丸は窮地に陥る。

 この2人の危機を救ったのが、ほかならぬ宗瑞だった。宗瑞は調停役として家督紛争に介入し、無事に問題を解決したのだ。

 今川家の家督紛争に際して、北川殿は宗瑞に調停を依頼したという(『今川記』など)。宗瑞は扇谷上杉氏の家宰・太田道灌と面会し、調停をまとめた。

 宗瑞の提示した調停案は、次のようなものだった。

①義忠の後継者には龍王丸を据える。

②龍王丸が成人するまでは、範満が後見役を務める。

 近年の研究によると、ことの経緯については室町幕府の意向があったと指摘されている。宗瑞は幕府(実質的には細川政元)の指示を受け、父・盛定の代理として駿河に下向したというのだ。

■調停案の背景

 当時、幕府は関東管領の上杉氏を危険視していた。範満の母は上杉政憲の娘だったので、幕府は範満が今川家の家督を継ぐことに反対していた。

 また、扇谷上杉家の定正は伊豆の守護を務める山内上杉氏に対抗すべく、今川家の家督問題に介入し、範満を支援するため大田道灌を派遣した。

 一方、義忠は応仁の乱で東軍の斯波氏と対立し、幕府に敵対していた。もともと幕府は、義忠を警戒していたのだ。

 義忠の没後、範満が今川家の家督を継ぐとまずくなるので、幕府は義忠の嫡男・龍王丸の支援に動いた。

 つまり、宗瑞の行動は幕府の意向を伝達するもので、それゆえスムーズに解決したという。これまで宗瑞の類まれなる能力が発揮されたと考えられてきたが、そうではないようである。

■まとめ

 このように、宗瑞の出自や前半生は、われわれが従来思い描いていたものとは、まったく異なるようだ。

 この時代は出自のよくわからない人物の台頭がめざましく、明智光秀や荒木村重はその代表である。いろいろと調べてみると実におもしろい。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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